原爆の日に思う(番外編)
2007年08月07日(火)
8月6日は「原爆の日」、まさに悪夢の日、その日から62年という歳月が流れた。7万8千人以上が死亡し、1万2千人が行方不明、3万7千人以上の負傷者。これだけ大きな数字の中に、後々原爆症で苦しまれた方、亡くなられた方の数はそれでも含まれていない。亡くなられた方々に、まず心からの黙祷を捧げたい。
原爆という凶器に、言いしれない理不尽さを覚えたのは中学生の時、原民喜の『夏の花』を読んでからだった。行間に描かれた地獄絵図に衝撃を受け、さらに原の『鎮魂歌』を、そして井伏鱒二の『黒い雨』をと、立て続けに読んだ。
中学生とはいえまだ子供の感性、だから、ただただ空から落とされる原爆の、その奇妙な形をしたきのこ雲の下で、予期しない死を迎えた市井の人々を、爛れた体を横たえる人を、虚ろな眼差しのままさまよう人を、その呻き、戸惑い、死臭と腐敗臭に満ち満ちた都市の、一瞬にして破壊されたそんな様を、恐る恐る、小さく開いた壁穴から覗き見るだけだった。
それが、次第に戦争そのものへの激しい憎悪となり、女の子にはたぶん珍しく、大岡昇平、火野葦平、伊藤桂一、阿川弘之といった作家の書いた、いわゆる「戦記モノ」を次から次へと読み漁るようになった。戦の場面になど興味のあるはずはなく、国の仕掛けた戦争の、何を信じてのことなのか、「無為」に命を落としてゆく兵隊の無力さに歯軋りし、ただただ、悔しがっていた。
どうして国民は愚かな戦争を許したのかと、しばしば母に尋ねたが、そのたびに母は、あの頃は戦争に反対するなんてこと、とてもできなかったのよと。その言葉を「嘘」だと感じていた。戦争は民衆が自ら招いたもの、愚かしさの結果だと、そんな確信があった。
小学生の頃、『アンネの日記』をぼろぼろになるまで読み返し、ヒトラーの狂気、それを熱狂的に支えるドイツ国民、アウシュビッツの強制収用所に運ばれ、生死を選別されるユダヤ人、そのいずれもが国家と民衆の間で暗黙裡に交わされた、不合理な契約の結果ではなかったのかと、そんな漠然とした思いが、すでにあったからなのか。
ミシェル・フーコーは『知への意志』の中で、近代の国家には「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」と記している。戦争に突入した日本にも、ヒトラーが跋扈したドイツにもこの権力は間違いなく現れたが、それを生み出すための、巧妙な社会システムが用意されていたとは言え、出現を許したのは、とりもなおさず民衆の愚かさに他ならなかった。
さほど遠くに過ぎ去ってしまったわけでもない歴史に学ぶことなく、今また同じ道を歩もうとしている日本。多木浩二は『戦争論』の中でこう語る。
「原爆はいまや多くの国が保有するまでになってしまった。少なくとも、その種の暴力が世界から消え失せていない以上、われわれはアウシュヴィッツやヒロシマの「名前」を象徴としてもつ歴史の闇から世界認識を始めなければならないのだ」
もう二度と猫を被った為政者の、猫撫で声になど騙されてはならない。あるいは、威嚇を恐れてはならない。自衛のための「軍備」、平和のための「核の保有」などという、矛盾した言語に決して惑わされてはならない。
写真:(上)被爆したヒロシマに真っ先に咲いたという「夾竹桃」。その樹皮には毒があるという。核のボタンを押して後、なお生き残るのは、「毒」をもった権力者だけなのかもしれない。(左)黙祷・・・
終戦記念日(番外編)
2007年08月15日(水)
終戦記念日。戦争終結を告げる玉音放送、日本が負けたという悔しさ、「臣民」として忠誠を果たしきれなかった申し訳なさ、だから首を深くうな垂れ、ひざまづき、涙をこぼし、誰も彼もが今にもくず折れそうな姿でラジオの前。
しばしば写真で見せられていたこの光景、それが摩訶不思議に思えて仕方がなかったのは、母親から、玉音放送を聞いて、これで戦争がやっと終わったと、嬉しくて嬉しくて、飛び跳ねて喜んだのよ、としょっちゅう聞かされていたからなのか。みんながどうして泣いているのか、さっぱりわからなかったわ、と。
父親は体が丈夫ではなかったので乙種合格、兵隊にいっても役には立たない身だったらしく、お陰で戦地には赴くことなく、だから戦死の心配はなかったが、命が危ぶまれるほどの言論統制。仕事の関係で、父の留守の間にしょっちゅう特高がやってきて、思想的に怪しい本を隠しているのではないかと、押入れから屋根裏、家の隅々まで調べられ、それはそれは怖かったと母。
それでも気丈だったから、見つかったらそれまでと腹を括り、持ってゆくなら持ってゆけ、連れてゆくなら連れてゆけと(内心震えながらだったのだろうが)、どこまでも強気の素振り。その癖、戦争中にしょっちゅう家に泥棒が入ったと、それだけはいつまでも怖がり、老いて後も寝言は「ドロボー、ドロボー」と。
戦争が「人殺し」の別称であることは言わずとしれたこと。それを、何を好んで為政者、戦争のできる国にしたいのかわからないが、「マダム寿司」などという、わけのわからない女性を防衛の頂点に置き、このお方、戦争に行く前の晩には赤い腰巻、当日は迷彩服に身を固め、その日の夕方には死装束、3度のお召し代えでも見せて下さるというのか。
それとも明日は戦闘機、あさっては軍艦、あたしはちょいワルのお爺さんが好みだけれど、若い男の子を乗せて、あの島、この島に行ってもらってちょうだいねと、冷房の効いた部屋で、にっこり笑って指図でもするつもりなのか。
太平洋戦争が終わって、人で言えば還暦と少し、小さい頃に受けた火傷の傷跡も、まだかろうじて残っているぐらいの歳月。だから、熱い熱湯を被った痛みを、まだまだ思い出すことだってできるはずなのに、そんなこと、すっかり忘れたのか、忘れたふりなのか、明日にでも参戦できる態勢づくり。
暴力は暴力をもって鎮圧することができるなどと、それは妄想。核は核をもって制することができるなど、ひたすら死への想像力の欠如。
太平洋戦争での犠牲者数は諸説あるようだが、軍人・民間人を合わせて、日本で約300万人、他国の軍人・民間人を合わせると数千万人(7000万人とか8000万人とか)にもおよぶと言う。戦争という愚かな行為を繰り返すことなど、決して許されないという思い、それは、平和な世の到来のために「人柱」となられた、これほどに多くの罪なき方々の命、流れ落ちた涙、血の雫を思えばこそ。
写真:(上)平和の白い猫・・・?(左)ストップ・ザ・戦争!
ちゅうとれ、生まれ変わります・・・たぶん
2007年12月25日(火)
『ジュリとママのちゅうちゅうとれいん』にいらしてくださり、ありがとうございます。12月はコトの外忙しく、更新をサボりまくりました。その間を、やたら無為に過ごしていたというわけではなく(ホント)、実は、このブログの方向転換を図るべく、試行錯誤していました。
その結果・・・幸いにも(?)かわいい猫ちゃんがたくさん降ってきてくれましたので、猫ブログはその子たちに任せ、『ちゅうちゅうとれいん』は、ジュリママの筆の向くまま気の向くまま、その時々のいろいろな話題(もちろん猫の話題も)について書いてゆこうと思い立ちました。
猫ブログは『あけみ参上つかまちゅりーっ!』という、才気煥発なあけみの、絵日記ふうブログに譲ります。左のボタンをクリックしてくださると移動しますが、まだテスト段階ですので、記事はきちんとアップされていません。今年中には完成させますので、子年のお正月からご贔屓にして頂ければ幸いです。
写真:(上)『あけみ参上つかまちゅりーっ!』のあけみです。どうぞよろしくお願いします。(左)あけみ3兄弟も無事成長し、ワキャワキャと、毎日大変な騒ぎです。
ルネッサンス?
2008年01月11日(金)
昨日は、3年間所属していた某大学院の研究室の新年会だった。といっても、実際に修士を取得したのは別の大学。こちらはA教授の教えを請うために門を叩き、研究生という肩書きで所属していた研究室。研究の醍醐味を味わったのはむしろこちらのほうで、数々の素晴らしい教授との出会い、学会との関わりなども、この研究室あればこそのことだった
研究室の学生は私の子供の世代ほどの若さ、A教授と私がほぼ同じ世代で、暗い研究室での細かい文字に右往左往していたのは教授と私だけ。昨日も飲み屋さんの細かいメニューが見えないと呟く2人のために、若者が大きな声でメニューを読み上げてくれた。
学びにきている学生の国籍もいろいろで、中国、韓国、インド、チリ、モンゴルなど。普段あまりおつきあいをする機会のない国の学生との会話は、国民性の違いが如実に現れ、時に戸惑うこともあったが、実に楽しくもあった。
教授が他大学に移動されたため、散り散りバラバラになって2年。その後、博士課程に進学したり、就職したりという近況報告が続いたが、新聞などでも話題になっているように、大学院は出たけれど…という時代。
修了後に、能力を活かした生き方をしているのはほんの僅かで、特に博士課程に進学した面々は、論文を書き上げることができず、在籍期間を延長するために、「休学」制度を利用して時間稼ぎをしているという。まさにモラトリアムのオーバードクター。
会いたかったインドの友人が来なかったのにはがっかりしたが、「Bさんは今、休学して肉体労働をしているのよ」と。宅配便の仕分け作業をしているらしい。当時から生活を支えることに必死だったが、今も状況は変わっていないようだ。どうか無事博士論文を書き上げ、祖国に帰れる日が来ますように。中国の友人は日本企業に就職が決まったというから、彼も日本で活躍の場があるといいのだが。
「私は、今月いっぱいで現職を退職して、フリーターになることにしました。1年半という短い正社会人生活に別れを告げ、現代社会の下層で生きていくことにしました」・・・こんなメールをMLに流してきたCさんは、下層という表現は過激すぎるとみんなに言われていた。人が「生きる」という行為を「上層」「下層」に分けることに、なんの意味があるのかと思うが、心底そう思っているふうだった。
Cさんは苦学して修士課程を修了した人だった。彼女ばかりではなく、ほとんどが親元を離れて暮らしていたから、彼らの生活を案じてA教授はずいぶん労を尽くされていた。A教授は研究者としての実績もさることながら、教育者として実に尊敬できる方だった。
私もこの教授の熱心な指導のおかげで、新たな、しかも衝撃的な研究テーマにめぐりあうことができた一人だった。時に「こんな論文を書く頭の中身が見てみたい」と厳しく言われたこともあって、その時ばかりは鬼に見えたけれど。
去年はキワドイ低空飛行で、このまま墜落してしまうのではないかと思えるほど。脳内メーカーとやらで脳を覗き見れば、きっと「鬱、鬱、鬱、怠惰、怠惰、泣き言、泣き言」と書かれていたに違いない。なんと非建設的だったことか。
A教授、そして若い仲間と久しぶりに会い、話しをしていて心に浮かんだ「再生」という言葉、たぶんこれが今年のキーワード。
写真:(上)研究室の年齢差はこれぐらい?14歳のちりりんと3ヶ月の子供達・・・。(話題が変わっても猫)(左)お正月元旦は毎年、栃木県鹿沼市にお札を頂きに行く。筑波山を通り過ぎるとき、いつも新しい年を実感する。
プロフィール
ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。

