前月へ 2008年04月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 翌月へ

月別:2008年04月

タイトルバック

復活節のカンタータ

2008年04月01日(火)

20080401-01.jpg

しばらく小休止していた、教会暦によるバッハ・カンタータシリーズが始まった。昨年11月にメンデルスゾーンの<エリア>を弾き、あまりの大曲に力尽きたというわけでもなかったのだけれど、まあそれに近い心境でバイオリンに触れることなく過ごしていた。

それよりもここ2ヶ月間はフクの看病に追われ、朝から晩までフク、フクと声をかけ続ける生活、楽器どころではなかった。疲れた体と心を音楽で癒そうという気にもなれず、楽しみにしていた演奏会を2回フイにし、CDさえ聴かずにいた。久しぶりにバイオリンのケースを開けると、蓋の内側に猫の毛がついていて、これは間違いなくフクちゃんの毛。バイオリンを出した後の空間は、フクが丸まって寝るのに恰好の場所だった。

その昔飼っていた犬のヒロは、バイオリンを弾きはじめると必ずワォーン、ワォワオーンと遠吠えをする。チャコという気難しい猫は、バイオリンのケースを開ける仕草をするだけで、冷蔵庫の裏に隠れてしまった。ずいぶんと失礼な話だけれど、人間なら耳を塞ぎたいといったところだったのか。

それほど犬猫の評判芳しくないバイオリンだけれど、フクだけは練習の間、どれほど音程が狂おうと、キーキーという耳障りな音を立てようと、平然とケースの中で寝ていた。練習が終わっても、気持ち良さそうに寝ているフクを起こすのがかわいそうで、起きるまでそのまま。バイオリンは所在無くテーブルの上に放り出されていた。どうして死んじゃったのよぉ、と、ぽそりと呟きながらの練習再開。

今回のシリーズは、(よりにもよって)「復活節」のためのカンタータで始まる。第一日目は31番<天は笑い、地は歓呼す(Der Himmel lacht! Die Erde jubilieret)>。死は復活の大前提であり、だから喜びに溢れたものとして死が謳われる。

特に九曲目、他のカンタータではしばしば葬送を象徴するものとして用いられるコラールが、ここでは、イエスの復活を信じることによって、自らもまた永遠の生命が約束されるという、歓喜に満ちたものとして表現される。だから決して暗く弾かないでくださいね、という指揮者の指示。

指揮者がそんな要望を出した直後、練習を聞いていた某大御所の歌手が突如、「死は決して悲しいものではなく、むしろ永遠の生命を得るという素晴らしいものなのよ。内村鑑三はね、お嬢さんのルツ子さんが死んだ時、『ルツ子さんバンザイ!』と叫んだのよ」と口を挟む。

カンタータは弾くのも聴くのも好きだけれど、キリスト教そのものに詳しいわけではないし、信者でもなく、まして内村鑑三の思想など知る由もないから、内村の発した言葉の真理を読み解く術などまったくない。凡庸な私は、キリストの再臨と復活の信仰によってしか、我が子の死を受け入れることなどできなかったのだろうという、内村の「親」としての悲しみを思うだけ。

フクの死は「消滅」。いつしか私が無に帰す時、私の記憶の中に生き続けたフクも同時に無に帰してしまう。それで十分なように思う。命に限りがあればこその「愛」。二度と会えないからこその「今」。

あと2日、復活節のためのカンタータ演奏が続く。

20080401-02.jpg  

写真:(上)バイオリンケースで寝ているフクの最後の写真。(下)庭のモクレンが満開。モクレンはまだまだこの先もずっと咲き続ける。


タイトルバック

タンポポが飛んできた!

2008年04月07日(月)

20080407-01.jpg

ねこぼーしさんから、シロバナタンポポの種が届きました。フクが闘病していた間、庭に咲いたシロバナタンポポに「フクちゃん」という名前をつけて回復を祈ってくださっていた、そのお花の種です。

お母様が作られたという可憐な布の袋、そして四葉のクローバーのついたブックカバーと一緒に。ねこぼーしさんのブログは文章も写真もいつも穏やか。拝見するたびに癒されますが、送ってくださった物も、そのお人柄を偲ばせるものばかりでした。

ブログというのは不思議な世界で、文章や写真を拝見していると、書いている方がとても身近に感じられることがあります。お会いしたこともないのに、とうの昔からのお知り合いだったような。

未だ見ぬ方への想像を膨らませながら、ほのぼのとした交流に心温められるこの幸福は、猫たちが私にくれた贈り物なのです。

20080407-02.jpg  

写真:(上)ねこぼーしさん、ありがとうございます!(下)ふわふわとした種ですが、不思議なほどに強い生命力が感じられます。来年、たくさんのフクの花が咲いてくれるといいなあ!


タイトルバック

長寿がメデタクない国

2008年04月21日(月)

20080421-01.jpg

悪評高き「後期高齢者医療制度」(「長寿医療制度」)。これが自民党の悪行の為せるワザとようやく気づき、政権交代が必要だとかなんとか、民衆の怒りも頂点に達し、こぞって福田政権を非難し始めた。でも、元を質せばこの制度の産みの親は2年前の小泉政権。数にモノ言わせてのゴリ押しで通った制度じゃなかったっけ?

小泉前首相っていうのは血も涙もない悪代官だったとつくづく思うが、でもまあそれなりに正直ではあった。それが証拠に「ワタシのカイカクは痛みを伴う」ってはっきり公言していて、それでもいいよね、賛成してくれるよねとずいぶん念を押していた。冗談じゃないと憤っていた人たちは、当時わずか20パーセントほど。

何度も何度も念を押されたのに、まさか自分が痛みを負う当人だなんて思ってもいなかったらしく、一番痛みを負わされる層が、こぞって小泉劇場に木戸銭を払い、幕の内弁当ならぬ日の丸弁当をつつきながらやんやの喝采、小泉政権を盛り上げていた。実際に斬られてみなくちゃ痛みを感じない国民を育てたなんて、小泉氏の提唱する「鈍感力」普及政策も見事に成功。

これだけ足蹴にされながら、時事通信社の4月の世論調査によれば、首相にふさわしい政治家は「自民党の小泉純一郎元首相」だという。21.2%で断然トップと聞いて空いた口はそのまんま。日本国民というのは、ほんとうに「塀の中の懲りない面々」。牢獄に入れられても入れられても、シャバに戻れば悪代官に一票を投じる。臭いメシがよほど好きらしい。

イラクの自衛隊派遣は(当然のことながら)違憲とされたが、これとて当事者は小泉氏。国会で非戦闘地域について質問されれば、「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域」という詭弁を弄し、党首討論でイラク国内の非戦闘地域について聞かれれば、「イラク国内の地名とかを把握しているわけではない。 どこが非戦闘地域かと聞かれても分かるわけがない」と発言。一国の首相のこれほどに無責任な発言を、小泉さんってわかりやすーいとかなんとか。日本の政治の吉本興業化はこの頃から。

色川大吉氏は『ある昭和史』(中央公論社)の中で1944年を振り返り、こう記す。「『私は』といえば、依然としてこの時代の巨大な国民的思考の枠組─共同幻想の錯誤から離れることができず、憤りながら、もがきながらも、愚衆の中の一人として、この『不義』の戦争の破局まで全力で尽くし続けることになる」と。色川氏の戦後の深い内省の言葉。

痛みを分かちあう「共同幻想の錯誤」よ再びか。冗談じゃない、痩せたライオンにとって食われるぐらいなら、うちの猫たちのためにミンチにされ、エサになってあげたほうがよほどまし。あら、後期高齢者医療制度について書こうと思ったのにブレた?いつのまにかブレないのが売りだった悪代官のことばかり・・・。

20080421-02.jpg  

写真:(上)今年14歳のチリリン。後期高齢猫まであと1年だけれどまだまだ若いつもり。(下)最近「悪代官化」しているムメモ。ボスだったフクの後を引き継ぎ、他の猫たちに采配を振るいはじめた。


タイトルバック

正義という名の横暴

2008年04月26日(土)

20080426-01.jpg

「山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決公判が22日、広島高裁で開かれ、同裁判所は殺人と強姦致死などの罪に問われた当時18歳の元少年(27)に死刑を言い渡した。」(4月22日 AFP)

事件の凄惨さについては筆舌尽くし難く、被害に会われた母子の無念の気持ち、ご家族やご親族の心痛を思うと、胸が張り裂けそうになる。犯行におよんだ(元)少年に対しては、いかなる理由があろうと情状酌量の余地などあるものかと、心情的にはそう思う。罪の償いのために、最も重い罰を受けるべきだと。

けれど、この判決に言及しているブログのほとんどが(膨大なブログの中の、僅かなブログにしか過ぎないのだが)、死刑だ!そら見ろ、死刑だと、鬼の首を取ったような書き方をしていることに対しては、強い違和感を感じざるをえない。死刑判決の下った被告に対し、民衆がこぞって石礫を投げる光景は異様だ。

26枚の一般傍聴券に3886人が詰めかけたというが、傍聴券に群がった人々の目的は、ほんとうのところなんだったのだろう。法の専門家は除外するとして、傍聴を望む一般市民の興味は、事件当時18歳未満だった被告が、2審の無期懲役判決の差し戻しによって、27歳となった今、死刑求刑を受けるのかどうかという法的な興味からだったのか。

経緯に詳しくないが、某番組で橋下現大阪府知事が、光市母子殺人事件弁護団(橋下氏言うところのカルト弁護士たち)に対し懲戒請求を出そうと呼びかけ、多くの一般市民がそれに応じたそうだが、その延長線上のことだったのか。

死刑制度については、未だ多くの問題が山積している。そもそも死刑とは何なのか、国民の生命に手をかけることが許される「国家」のシステムとは一体どういうものなのか、あるいは「報復」という極めて抽象的な概念をどう解釈するのか。

高橋哲哉氏は『戦後責任論』(講談社学術文庫)の中で、ハンナ・アーレントがアイヒマンの死刑を支持したことについて、「アーレントが『ユダヤ人を殺したナチは生きる権利をもたない』といって死刑を支持するとき、そこに『世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利があるかのように人を殺す』という、アーレントが拒否したはずの全体主義の論理がある形で反復されているように感じる」と記す。アーレントの思考をもってしても、死刑は矛盾の中に押しやられてしまうということか。

死刑を当然のこととする民衆の、けれど誰一人として囚人の首に縄をかけるわけでもなく、自ら処刑台のボタンを押すでもなく、処刑された囚人の遺体に接するでもない。実にあっけらかんとした、他者意識の中で死刑は肯定される。死刑がこれほど安易に語られる理由はそこにあるのか。

さらに気にかかるのは、「正義」を前提とした死刑肯定の意見に対しては、いかなる反論も許されそうにないこと。そんな雰囲気が蔓延する時代は極めて危険だ。毎日新聞(4月24日・夕刊)に、編集委員の金子秀敏氏による「人民による言論封殺」と題するコラムが掲載されていた。チベット暴動に対し、中国政府のみならず、中国の一般市民の間でさまざまな言論封殺が始まっているという。「人民の人民による言論封殺」への警戒感を示す記事だった。

日本もまた、同様の兆候を見せはじめてはいまいか。KY(空気が読めない)な人を揶揄する人々は、すべてに同一性を求める。「正義」という印籠を見せつけられれば、すべての人々はその「正義」にひれ伏し、肯定しなければればならない。それに異を唱えることを許さない空気が国中に蔓延した時、どんなことが起こるのか、起こったのか、日本人はすでに経験したはずではないか。

光市母子殺人事件も心情とは別に、あらゆる角度から冷静に、犯罪を、そして判決を読み解く必要があるのではないか。決して煽るなかれ、そして煽られるなかれ…。

20080426-02.jpg  

写真:(上)猫草に群がっても、この子たちの考えていることはてんでんばらばら。(下)かつおの生利をくれたって、あたしはあたしヨ。


タイトルバック

うれしい出来事

2008年04月30日(水)

20080430-01.jpg

数日前、久しぶりにご近所の奥様2人とランチに出かけた。書が趣味というお二人、書のいろいろなお話を伺うのが楽しく、大抵同道させて頂く。

猫仲間というわけではないのだけれど、一人は、前の飼い主が高齢のために飼えなくなったという、12歳になるポメラニアンを引き取って飼っている。動物は好きだったものの飼ったことはなく、飼ってみてそのかわいらしさの虜になってしまったヒト。今では我が子も同然、買い物に置いてゆくだけでも気が気ではなく、そそくさと帰ってくるのだとか。

ポメちゃんを飼うまでは、庭に入ってくるノラ猫を追い払っていた。けれど、ポメちゃんが来てからというもの、猫を追う気にはとてもなれず、それどころか、「猫ちゃん」と声をかけてしまうようになってしまったと笑いながら言う。ねえ、かわいいのねえ、犬や猫がこんなにかわいいものだとは思わなかった。

この彼女、以前子猫を連れて歩いている猫を見かけ、かわいそうなのでどうにかしてあげたいと声をかけてきたことがあった。それを知ってか知らずか、それからほどなくして、親猫が子猫2匹を連れて我が家の庭にふらりと現れた。子猫はもう触れないほどの大きさになってしまっていたから、里親を探すことも、家の中に入れることも無理だったが、とりあえず母猫を捕獲して避妊手術をした。

そのことを報告すると、手術代を折半させて欲しいと、封筒にお金を入れて持ってきてくれた。優しい気持ちだけで十分ではあったけれど、これで「共犯」、猫同盟の契りが結べると思い、有難く頂戴することにした。(その後、いろいろな事情からこの母猫を飼うハメに…それがミイちゃん。)

もう一人は動物をまったく飼ったことがない。広い庭はいつも手入れが行き届いていて、青い芝生と草花。このタイプ、きっと猫が嫌いに違いないと勝手な想像。当初は外猫が庭に入って行くのを見ては心配していたが、話をしてみるととても繊細、急速に親しくなった。

でも私の友人には珍しく、この先も動物は絶対に飼わないと断言する。死に目に遭うのがどうしても嫌だから。実は、あけみちゃんたちはこのお宅の裏の竹やぶで生まれている。明日香母さんが時々庭に連れてきていたとかで、3匹の子猫を何回も見かけていたらしい。親子の姿を見るたびに意地らしいという思いが募りはするが、どうすることもできず、「飼ってあげられなくてごめんね」と心の中で呟いていたのだそうだ。

あの子たちなら、家の中で我儘し放題に暮らしているわと言うと、とても済まなそうな表情をして俯いてしまった。それぞれにいろいろな事情を抱えているのだもの、飼えない人もいて当然。かわいそうにと思ってくれる気持ちだけでも有難い。その分、ほうっておけない性分の猫好きが孤軍奮闘してしまうことにはなるのだけれど…。

ランチの翌日、ポストに彼女からの分厚い手紙が投函されていた。彼女のこれまでの人生のこと、今の生活のこと、そしてこれからの生き方など、言葉を選びながらそれはそれは繊細な表現で綴られていた。真摯に生きる彼女らしい文章だと、心打たれながら読み進んでいくと最後にポツリ、「別の封筒に入っているお金を猫ちゃんのために使ってください。」・・・えっ?

小さな封筒には、丁寧に折られたお金が同封されていた。ポメちゃんの飼い主の時と同じように戸惑ったが、彼女の心境は痛いほど伝わってくる。自分が生きることだけで精一杯、小さな命ひとつ救おうともしない…彼女にとってはそのことがなによりも負い目になってしまっているのだ。猫のために使わせて頂きましょう、そう思い、外猫タゴちゃんの去勢手術代として寄付して頂くことにした。猫ちゃんたちにおいしいものを食べさせてあげて、と書かれていたので、あけみたちには鰹のナマリ。

猫にエサをあげるな、猫の糞が汚いという自治会の回覧板にずいぶん悩み、果ては捕獲器の話まで持ち上がった時には、ご近所すべてが「敵」なのかしらと思い悩んだこともあった。でも、どうしても小さな命を守ってあげなくちゃと、そのたびごとに自治会長に手紙を書き、地域猫への理解を求めるなどしてきた。その甲斐があったというものか。

必死で生きようとしている命、小さな命を守ることは、狭義の「動物愛護」にどとまらない。そのことに気づいてもらうことさえできれば、理解者・協力者は確実に増える、そんな思いを実感した出来事だった。

20080430-02.jpg  

写真:(上)友人の裏庭で生まれた竹やぶ三兄弟のあけみ。うーん、かわいく育ったものだ・・・と親ばか全開!(下)鰹のナマリをくれるって言ってたのに、お素麺?!


サブタイトルバック

プロフィール

ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。

サブタイトルバック

検索

サブタイトルバック

トラックバック

 
あけみブログへリンク