ジュリママ、ふっかーーーツ!
2007年11月09日(金)
11月2日まで忙しくて、ブログを更新することもできずにいた。書く時間がまったくなかったわけでもないのに、精神的に余裕のない日々。お気に入りの猫ブログを、毎日楽しみに覗かせて頂くのが唯一の楽しみだった。
このまま終わっちゃうの?なんて自分でも思っていたのだけれど、今日、どうしても書かなければならない「事件」が発生して、一挙に復活!捕獲に失敗した明日香ちゃんのこと。その後捕獲して避妊手術をしたのだけれど、取り逃したあの一週間はやっぱり痛かった…というお話。
先日、猫仲間のご近所さんから、生後2ヶ月ぐらいの子猫2匹を見かけたけれど、どこの子かしらと電話があった。そんな子猫を見たことなどなく、やだー、また誰かが捨てたのかしらねえ、なんて言っていたら、どうやら明日香ちゃん、捕獲に失敗した一週間の間に出産を済ませていたらしい。
数日前、わっさわっさと3匹(2匹じゃなくて、3匹も!)の子猫を引き連れて我が家の庭にやってきた。見た瞬間に頭は真っ白。ただでさえ「クレゾールおばさん」が出現しているというのに、これ以上猫がうろついたら、9年間も外猫として無事過ごしてきた子たちに危機が及ぶかもしれない。
里親探ししかないと決心して罠を仕掛けたところ、どうやら我が意に神様も賛同してくださったらしく、ありえないというシチュエーションが展開して子供3匹を無事保護。病院に直行してエイズ検査だのなんだの。ちょっと風邪をひいてはいるものの、他は無事陰性でまずは一安心。
今は環境の激変に馴染ませるためケージの中に入れているが、まだ1ヶ月半ぐらいなので、野良ちゃんの子でも十分に人間に懐く年齢。来週あたりから家の子たちと対面させ、かわいい子に育てあげてどなたかに貰って頂かなくちゃ。(すみません、どなたか里親さんがいらしたら、ぜひぜひぜひ!!!ご紹介ください。かわいい写真を撮ったらアップします。)
…と、そんな騒動に巻き込まれてうんざりしていたら、今日は保健所から「ご近所から苦情が出ているので実情を調査しにきました」と。
避妊手術、里親探し、エサやりの方法など、すべて東京都などの自治体が行っている地域猫に準じたやり方をしていることを説明し、苦情は匿名ではなく実名で、その際には我が家の外猫が迷惑をかけているということを証明できる写真を持参し(だって、放して飼いの飼い猫も周囲にはいっぱいいるんですから)、直接来訪してくだされば、苦情の解決策を模索しますと伝えて欲しい旨、逆要請。
保健所の方たち、まったく文句を言うでもなく、問題はありませんので了解しましたと帰られた。「捕獲などという話が持ち上がった場合には、必ず我が家に連絡をしてくださいね」と言うと、「猫は捕獲できないんです」。薬殺だの虐待だのは動物愛護法で罰金刑、捕獲もできないのは百も承知。それでもやってる人はいるんだもの、念を押しとかなくちゃ。
直後に、たまたま庭を掃除していらしたご近所さんに、迷惑をかけていたらいつでも言ってくださいねと言うと「飼ってあげられなくてごめんね、っていつも心の中で言ってるのよ」と優しい言葉。別の家からお婆ちゃまも出てこられ、「猫なんてなんとも思っていませんよ、それより、ウチの庭が草ボウボウで迷惑をかけていることのほうが気にかかって」と呵呵大笑(豪快なお婆ちゃま)。やれやれ・・・。
動物の命を守るというのは、並々ならない体力と気力が必要らしい。あのちっぽけな命ひとつぐらい、簡単に守ってあげられそうなものだけれど、闘いの相手は猫じゃなくて、どうにも偏屈な人間という生き物なんだもの。まったく、人間ほど厄介な生物なんて他にいやしない。
大変だけれど、できるかぎり猫達を守ってあげなくちゃ。人間も猫も束の間の生を受けて今があるだけで、100年も経てばお互い影も形もありゃしない。所詮仮のこの世で、他の生き物の命を疎んじ、抹殺しようとする行為のなんて虚しいこと、まったく馬鹿げているとしか言いようがない。
写真:(上)捕獲成功!(左)保護直前の明日香ちゃんと子猫たち。親子の別離はほんとうにかわいそう。明日香が馴れていれば一緒に保護するのだけれど、触ることさえできない・・・。
命を守るのって、タイヘン・・・
2007年11月12日(月)
保護した子猫たち、だいぶ環境に馴れてはきたものの、それでもまだ積極的に人間の側に来ようとはしない。産まれ落ちた場所にはカラスがたくさんいて、だからピーピー騒げば捕食(!)されてしまう。利口な母さん猫のことだから、よほど用心深く育てたのだろう。
昨日、ケージ2つを繋げて少し広めの空間を作ってあげた。1LDKぐらいの広さ。遊ぶ場所が広がったというのに、まだワイワイとはしゃぐ気にはなれないらしく、狭い場所でおしくら饅頭状態。
不思議なのは先住猫たちの反応。誰一人興味を示さず、フンと鼻先で臭いを嗅ぐだけで、後は鳴こうが騒ごうがまるで知らんぷり、普段どおりに自分の生活だけをエンジョイしている。「また猫道楽?いい加減にしなさいよ」とでもいうところなのか。
その昔、拾ったばかりのフクちゃんを「私の子、私の子」と大騒ぎし、渡すと出ないおっぱいを嬉々としてあげていたチリリンももう13歳。さすがに子育ては億劫なのか、見向きもしない。ジュリもミミを育てたというのに。
かろうじて、ムメちゃんだけがケージの中に手を突っ込んだりしているけれど、あのムクムクの、黒い毛むくじゃらの手がニュッと現れると、子猫たちはびっくりして、ますます奥深く潜り込んでしまう。まるで『オオカミと7匹の子ヤギ』…。
保健所が来た日の夜、隣近所、我が家を取り巻く一角、すべてのお宅に外猫のお詫びと、何か不都合なことがあればいつでもおっしゃってくださいと電話を入れた。嫌味のひとつも言われるかしらと思ったけれど、命を守るのに怯んでなどいられない。その時はその時だと腹を括り、まずは誠意を尽くそうと。
どのお宅も、(心の底はわからないけれど)迷惑だなんて思わない、それよりも、一人でノラちゃんの保護や避妊に奮闘していて大変だと気遣ってくださる。里親を探してあげるから写真をちょうだいという方や、娘さんが欲しがっているから見せてという方も。世の中まんざら捨てたものでもない。
クレゾールは庭の一角に畑を作っているお宅のご主人が、畑に猫が入らないようにと撒いたらしい。これは作物を守る目的。それなら畑のウンチ拾いでも、草取りでもなんでもしますからいつでも使ってくださいね、と。畑を荒らしている猫の風体を聞けば、明らかに隣の飼い猫なのに・・・。
というわけで、クレゾールおばさんは濡れ衣でした、ごめんなさい○○さん!でも、それなら保健所に連絡をしたのはいったいどこの誰なのかしら?なんだか「八墓村」。
子猫たちには、友人の中に貰い手が見つかりはじめ、それも、ものすごく可愛がってくださりそうな方たちばかり。でも、すでに先住猫さんのいるお宅ばかりなので、まだ少し迷いもあって即決とまではいかない。だからあとは、カワイさをどこまでアピールできるかという「営業力」にかかっている。
たくさんの猫を飼えば、きっとたくさんの幸せが貰えますよって、忘れずに付け足さなくちゃ!
写真:(上)まだ警戒をしている子猫3匹。一番奥に体の一番小さい黒キジちゃんが潰されていて、姿が見えない。(左)若かりし頃のチリリンと、子猫のフクちゃん。
ぽんぽこりん♪
2007年11月14日(水)
昨日の夕方、拾った子たちのうちの2ニャンの目がウルウルしているので、獣医さんに連れていかなくちゃ…と思って準備をしていると電話が鳴った。
○○さん「裏の○○です。悪いんですけど、庭にウンチをされて臭いので、お宅の庭に植木鉢の中に柔らかい土を入れていくつか置いておいてくれないかしら。そうすればウチではしないと思うんです」。
ジュリママ「申し訳ありません。普段から庭の四方の土を柔らかくして、なるべくウチでしてくれるように工夫しているのですが、それでもまだそちらに行っているようでしたら、明日中に複数のポットを設置します。」
○○さん「でね~奥さん、なんで外猫なんているんですか?猫にエサをあげなきゃいいじゃないですか?エサやり、やめてくれません?」
ジ(きたーっ!ははあん、やっぱり保健所とクレゾールおばさんは当初の予想どおりこの人だったか…。こちらから電話を掛けた時には、猫のウンチなんて自分で掃除すればいいんですから気にしないで下さい、私は猫が好きですからって確か言っていたはずけれど、電話を切ってから悶々として眠れぬ夜を過ごしたか?)
ジュリママ「お庭にいた猫って、どんな模様でしたか?」
○○さん「これこれしかじか」
ジ(またしても隣の飼い猫と、黄色い首輪をしたどこかのアメショーもどきの飼い猫じゃない!)
ジュリママ「それは私の家の猫ではありませんが、猫が迷惑をかけないよう、できる限りのことはさせて頂きます。でも、申し訳ないのですがエサを与えるなというご意見にだけは従う気持ちはありません。」
○○さん「でも、それって近所迷惑でしょ。猫のウンチってすっごく臭いんですよね。」
ジ(人間のウンチだって、相当な臭いでしょがあ。排泄が思うようにならないご老人がどんな虐待を受けているかご存知?排泄物が「臭い、汚い」と言われ、雑巾でひっぱたかれ、オムツも取り替えられずに寝たきりの放置状態。猫のウンチが臭いと言っている自分だって、いつの日かウンチで泣く事になるかもしれないというのに。)
ジュリママ「人間にとって清潔であること、目障りなものの姿が見えないこと、こうした環境は必ずしも地域社会にとって快適なものとは言えないのではないですか?避妊、不妊手術をすることなくむやみに増やすこと、エサ場以外で無数の猫を集めてエサをやること、ご近所の苦情を真摯に受け止めて改善しようとしないこと、これは問題だと思いますが、自分にとって都合の悪いもの、邪魔なものをすべて排除しようとする考えは、人間の弱者の排斥にもつながり、ただでさえ高齢化しているこの地域で、今後の近隣の相互扶助にも大きな影響を与えるのではありませんか?
猫と人間は違うとお考えになられるかも知れませんが、弱者との共存・共生を考える上では同質なのではないでしょうか。どんな生き物であれ、生存の権利を奪う考え方に共鳴することはできません。できる範囲で猫が嫌いな方との妥協点を見出して、共に生きる社会を形成することを私は考えています。」
○○さん「でもねえ、避妊だ不妊だって言うけれど、私んちにはそんなお金はありませんし、簡単にはできないでしょ。だから猫を寄せ付けないようにするのが一番なんじゃないんですか?」
ジュリママ「貴女はお子さんを立派に育てあげられていますけれど、そのためにどれほどのお金を使われました?私には子供がいませんから、猫たちに手術をしてあげるお金はなんとかなります。そのことで少なからず社会に還元しようという意図も含まれています。それに、子供が人様を傷つけたのなんので苦労する親を思えば、ウンチをして困るという苦情に対処することなど、なんでもありませんし。」
○○さん「はあ、そうですか…。」
ジ(はい、そうです。猫のウンチ、ウンチと騒いでいると、脳みそがウンチになっちゃいますよ。あまりウンチに拘るから、私の返事も思わず「屁理屈」のこね回し。)
というわけで、本日はそのお宅との境目に、柔らかい土を入れたポットをズラリと並べる作業に半日。ついでに塀にネットを張り巡らせたのだけれど、効果はあまり期待できそうにない。今月中に、公園にあるような、川砂を入れた大きめの砂場を庭に作ることにしよう。
作業をしながらもう一度そのお宅の庭を覗くと、水の入ったペットボトルが、以前にも増してズラリと並んでいる。それに、クレゾールの臭いも微かに鼻につく。クレゾールおばさんはやっぱりここだったのか。庭仕事をしている間、田吾作ちゃんがくっついて歩いていたので「お隣に行っちゃだめよ」と言い聞かせたけれど、わかってくれたかしら。
こうなったら「理論武装」しておかなくちゃと、改めて外猫に関する都の行政指導報告書などを読んでみると、猫のエサやりについては自宅の敷地内であれば、制止、規制をすることはできないらしい。問われるのはあくまでもエサをやる側のモラル。そして個体数を減らす努力。
行政もやっと猫を「処分」するのではなく、どう共存するかということに腐心し始めたようだ。それもこれも動物の保護団体、もしくは心ある人々の運動の成果。それでも猫を毛嫌いする人に、猫との共存が本質的に何を意味するのかを理解してもらうには、まだまだ時間がかかるだろう。
しかし改めて(本物のタヌキちゃんには悪いけれど)タヌキのしっぽを見た思い。話している最中に、突然受話器が木の枝にならなかったのが不思議なぐらい。それでもまあ、当事者同士が意見を言えるようになったことだけは、進歩したと喜ぶべきか。
写真:(上)3ニャンズの中でも一番の美人ちゃん!(左)3ニャンズはかわいすぎ。情が移らないうちに里親を探さなくちゃ!
会うは別れの始めなり・・・
2007年11月17日(土)
子猫ちゃんたちを保護して、今日でちょうど10日。まったく人に馴れていなかったので、里親さんを探すことなんてできるかしらと心配したけれど、ここ数日、ようやく心を開きはじめてくれた。
特に、他の2ニャンよりひとまわり大きな子は性格が陽性で活発、そのせいか懐くのも早く、今ではグブグブと言いながら、差し出した手を舐めてくれるまでになった。「ごはんよ~」と言えば飛んでくる。
他の2匹のおちびちゃんたちにはまだまだ警戒心が残っていて、先住猫さんと一緒にするのは少し早いので、一部屋を子猫たちにあてがっているのだけれど、その部屋に入ると、カーテンの影にかくれてしまったり、本箱の隅に逃げ込んでしまったり。
まだ「借りてきた猫」状態、だからおとなしいのかと言えば、決してそういうわけではなく、朝、部屋に入ってみると乱暴狼藉のかぎり、遊び散らかした痕跡があるから、子猫たちだけの時にはおおはしゃぎをしているらしい。(その部屋のドアに、嫌がらせの粗相をした先住猫さんは、ダーレ…?)
写真で見るとなんとなく寂しそうに見えるのは、母親との突然の別離、心の傷が癒えていないからなのか、それとも、ノラさんの子として生まれた宿命の悲しさを引き摺っているからなのか。いずれ人間との生活が楽しいものだとわかれば、先住猫たちがそうだったように、明るい表情を見せてくれようになるだろう。
で、問題なのは人間で、かわいくなればなるほど手放せなくなってしまいそうなこと。里親さんに渡す時には、きっと涙涙に違いない。別れを思っただけで涙が出そう、切ないなあ・・・。
写真:(上)茶白ちゃんは、昔飼っていた子にそっくり。(左)3匹の中でも一際小さかった子。育つかしらと心配したが、体重も順調に増えてかわいくなってきた。
たかが猫、されど猫
2007年11月18日(日)
今朝の朝日新聞に「異文化はじく日本 変えて」と題する記事があった。日本人と結婚した米国人女性の長女が、在住する群馬県の小学校でいじめにあったという話し。この女性、ミックメーヒル・カイランさんは、こうした体験を「負」のままに終わらせることなく、多言語学校の運営という活動へ精力的に転化させていったのだからすごい。
そのカイランさんが訴えるのは「多文化共生」の思想。違いを言い募って衝突するのではなく、違いを認め合える人間を育てなければならないということ。日本の学校では、決められた細かいルールを少しでも犯せばたちまちいじめの対象になるが、それは異邦人をはじき出す日本の文化と繋がっているのではないかと。
隣国の人々を侮蔑的な呼称で差別化していた日本など、遠い昔の話のようだが、グローバリゼーションだのなんだのと、そんな言葉が頻繁に語られるようになった昨今にあっても、なお異邦人を受け入れる成熟した社会には至っていないということか。
日本人の異文化、異質なものへのアレルギー、排除の思想。カイランさん言うところの、異邦人をはじきだす日本の文化の根源は、いったいどこにあるのだろう。ちょっとお堅い話しになるけれど、考えてみたいと思う。
地域社会における強固な社会結合の心理的因子は、日本が「国家」としての組織を有していなかった徳川時代の社会的集成の要素で、これが後々の日本民族の片鱗となっている。
村単位で租税・夫役が割当てられていたため、政治上の要求あるいは納税の締め付けに対し、村全体が一つにまとまり、団結していかなければならなかった。ここでは厳しい連帯が求められ、必然、村は強固な地域共同体(現在なら「自治会」といったところ)を構成することによって、離反者を出さないシステムを作り出す必要があった。
明治時代になっても、村落および村落を成立させていた地縁もしくは血縁による共同体は、住民に対し、共通のものを与えることによって可能となる共同性を軸として存在していたため、共同体に組した住民は簡単にその連帯を解くことなどできない。
そこでは個人の行動に対し、論理をとおして「ことあげ」することは、「牧歌的な平和の破壊を意味する」としてタブー視され、その結果、個の責任においての行動や意識が排除・抑圧されるという、日本固有の自治体が創出されていった。「個人」が集積した「集団」ではなく、あくまでも「集団」の中に「個人」が析出されるという、家父長制度の延長の中での組織だ。
太平洋戦争期には官製の御用機関として、町内会・自治会が大政翼賛の強力な後ろ盾となり、戦争への協力体制をより強固なものとしたが、それは、「個」を喪失した集団が作り上げた、偏狭なナショナリズムのなせるワザでもあった。組織の中から異質なものを排除しようとする共同体の有機的なネットワークを、国家は実に巧みに利用したわけだ。
こうしたDNAを綿々と引きずるがゆえに、日本人は今なお、異質なものを認める社会を形成することができないでいるのか。もちろん、異質なものを認められないのは日本人だけではない。「人」という種は、異種に対して寛容になれない動物なのかも知れない。
なんだか大仰な物言い、猫の話しとは関係がないじゃないか・・・って?いえ、外猫、地域猫の問題は、異質なものをどう受け入れるかという「人の問題」でもあって、さらに言えば、猫問題にどう対処するかということは、否がおうにも組み込まれてしまっている社会、あるいは地域という組織の中にあって、いかに「個」を貫くかという問題とも繋がっている。
ちっぽけな猫の問題が、時として自治会という組織を通して「集団」を生み出し、猫の排除、さらには猫の保護に奔走する人までも排斥しようとする、歪んだ地域社会を作り出す可能性だってあるのだ。
日本の社会が異質なものを排除しようとした時、そこに考えも及ばないような残虐性を帯びる可能性があることは、歴史的に見ても否定できない。さらに厄介なことは、それが「集団」によってなされるということ、すなわち、あたかも大多数の民意であるかのように行われることだ。
地域社会とはいったい何なのか、異質なものを排除しようとする心理はいったいどこから生まれるのか。ここ数日の外猫騒動、そして今日の新聞を読んで改めて考えてみたものの、どうやら根は深そう。多様性が認められる社会の到来はいつになるのか。
写真:(上)内容とは関係ありませんが・・・サビちゃんは子猫ストレスなのか、ここ数日お腹がユルくなっています。普段の倍も可愛がってあげているのに!(左)なにがあろうと3団子。
猫ちぐら
2007年11月20日(火)
またまた新聞記事から。昨日の朝日新聞夕刊に、新潟県関川村の「猫ちぐらの会」についての記事があった。「暖かいニャー、ぼくの家」というのどかな見出し。会長さんが編まれたらしい猫ちぐらに、大きな茶猫さんが入り込み、のっそりと顔を覗かせている写真があって、購買意欲を注がせる。早速ネットで調べてみると、注文が殺到していて仕上がりまでに1年はかかるという。
20年ぐらい前、「ふるさと創生事業」という名目で、全国の各市町村に1億円ずつバラ撒かれたが、有効な村興し、町興しには結びつかず、結局、悪名高きハコモノ行政で終わってしまったことがあった。猫ちぐらの人気を思えばなんのことはない、「町村興すにお金はいらぬ、猫の1匹いればいい」というわけ。
思わず微笑んだのは、材料となる藁について、わざわざ「コシヒカリ」と銘打っている生産者があったこと。お米を食べるのならいざ知らず、稲穂を失ってもなおコシヒカリのご威光。ウチの猫ちゃんはコシヒカリの猫ちぐら、あちらのお宅の猫ちゃんはアキタコマチ、こちらのお宅のお猫ちゃんはフサオトメとか。
ところで朝日新聞さん、猫ちぐらの話題の真上に「トラバサミ猛威なお」という記事をデカデカと載せるのは、ちょっとナンセンスのように思うのだけれど。動物好きにはこのレイアウト、幸せな気持ちと不幸な気持ちの両方を、一度に「がーっ」とジューサーにかけて飲まされたような、なんともいえない後味の悪さ。
内容は、環境保護団体「地球生物会議」が中心となって、トラバサミの販売・所持の禁止を訴えるもの。トラバサミにかかって、希少動物のみならず、飼い猫などもけがをしたり死んだりしているらしい。動物愛護・保護の視点から、重要な記事であることは十分に認めるけれど、記事の配置に多少なりとも配慮があればと、残念に思うことしきり。
「幸、不幸は常に隣り合わせ。読者諸氏、油断しちゃあいけませんぜ」と、そんな哲学的な紙面づくりだったりして?まさか・・・ネ。
写真:(上)「猫ちぐら」争奪戦。(左)我が家の「猫ちぐら」の正体は小さなダンボール箱。勝者は小柄なジュリちゃん。それでも頭ははみ出てしまう・・・。
芸(術)は猫を助けない?
2007年11月28日(水)
地方都市の小さな画廊でジャン・ジャンセン展が催される。ジャンセンの描く女性はひたすら細く、肉欲をそそる豊満さはないが、妙に怠惰なエロティシズムを漂わせている。ジャンセンと聞くと、ずっと昔、画廊でアルバイトをしていた頃のことを思い出す。
某大手商社に勤める30代後半と思しき男性が、ジャンセンの版画を購入した。その版画はジャンセンの絵の中でもことのほかエロティックで、細身の女性が臆面もなく大きく足を開き、画家はそれを真正面から描いている。巨匠ジャンセンの絵といえども、これを買うには勇気がいる。
購入した男性、後日自宅に届けて欲しいが、日と時間を必ず守って欲しいと言う。ところが画廊主、うっかり別の日に版画を届けてしまった。マンションのインターホンを押すと現れたのは奥方。その後どういう家庭争議が繰り広げられたのかはわからないが、当の男性から、ものすごい勢いでクレームの電話が入った。どうして約束を守らなかったのかと。
どうやら奥方には内緒で買ったらしい。諍いの内容は「なんでこんなお高い版画を黙って買ったの?」か、あるいは「なんでこんないやらしい絵を買ったの?!」のいずれかに違いない。下種の勘ぐり、あの版画を亭主がこっそりと隠れて買ったとなれば、やっぱり後者。
それにしても、怪し気なジャンセンの版画がどうして「春画」ではないのか。ここが「芸術」という定義の面白いところ。木下直之『美術という見世物』(ちくま学芸文庫)の中に、歌川芳国の「当盛見立人形之内 条の仙人」という錦絵が紹介されているが、この錦絵の下絵など、ジャンセンの版画と、描くところほとんど変わりがない。
久米仙人を雲の上から落とした「布洗い女」は大きく足を広げて、下半身も露わ。この布洗い女のモデルは、松本喜三郎という、当代きっての「生人形師」が作った裸体の女性の人形らしい。
喜三郎の生人形といえば、見世物小屋の興行でずいぶんと評判だったらしいが、明治2年に政府が「春画並ニ猥ケ間敷錦絵」を取り締まるようになり、同時に「男女の裸体モ相見ヘ不埒ノ至」として、喜三郎の人形も取り締まりの対象となっていったようだ。
錦絵として完成された芳国の「当盛見立人形之内 条の仙人」に、下絵のような露骨な描写が見られないのは、こうした理由が関係しているのだろう。木下氏は、生人形(の裸体)は「見世物」であったという理由で、西洋人の規定する「美術」から大きく逸れてしまったのだとしているが、はて、芸術的な裸体と猥褻な裸体、凡人はどう見分ければ良いものかと頭をひねるばかり。
これって、またしても猫の話題とは何にも関係がないじゃないって?いえー・・・
数日前、市川崑監督の『我輩は猫である』をCSの日本映画チャンネルで観てのこと。仲代達也だの波野久里子だの緑魔子だのと、市川監督だからこその一流の芸達者たちの顔、カオ。
けれど、その演技がいやらしく感じて閉口するばかり。昔、渋谷の「ジャンジャン」にシェイクスピアシアターの芝居をよく観に行ったけれど、あの時のリア王の大仰な演技、芝居となんら変わりない。うんざりしながらも、それでも最後まで観ていたのは、市川監督、「我輩」が最後に大きな甕に落ちて溺死する場面をどう描写するかしらと、そこに興味があってのこと。
あれれ、センスないなあ。甕に本当に猫を尽き落としたのだろう、溺れる姿をカメラが下から写す。細君が翌朝甕を覗くと、ポッカリ浮かんでいる我輩。一部だけしか映らないのだけれど、やけにリアルな毛、しかも、もはや生きてなんていないことが明白な無機質な毛。いやな場面だ。
そもそも、随所に現れる猫の描写に、猫をいとおしく思う監督の目が感じられないのはどうしたことか。猫が動こうとした時、右手足が床から離れずニャーとひと鳴きしてもがくような仕草をしたのを、猫好き、見逃してはいませんぞ。錯覚ではあるまいて。
きっと市川崑は猫が嫌いに違いないと、せっかくの「芸術」映画を観ての感想はそれだけ。巨匠の撮る映画が浴する「芸術」という評価。そこで表現されるものすべてが美化されてしまうが、映画にせよ絵画にせよ文学にせよ、観客のイマジネーションを強奪するものなど、「芸術」とは言えないんじゃないかと、そう思ったりして。漱石も「我輩」の最後、こんな書きかたをしちゃいない。
本当に死んだのかどうか定かではないけれど、監督の名声のために甕で溺れた哀れな猫ちゃんよ、「太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
写真:(上)ジャンセンのモデル風肢体を見せるミイちゃん。足を開いているけれどひとつもセクシーじゃない。ちょっと大きめだし。(左)3匹の子猫の近況です。はい、かわいいです!里親・・・~~;
プロフィール
ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。
月別記事
カテゴリー
検索
コメント
トラックバック
-
[JANJAN][お宅訪問!逮捕!!]「渋谷麻生邸不当逮捕事件に抗議 名古屋で“愛”の募金活動(JANJAN)(Ainu_puyarAの日記)
Esaman2008/11/08 11月3日、名古屋の東部にある歴史ある門前町、覚王山で開催されている覚王山祭りで、渋谷で逮捕された人たちを応援する募金...
-
[お宅訪問!逮捕!!]『麻生首相のお宅訪問!逮捕!!』新聞報道・映像特集(Ainu_puyarAの日記)
救援会公式ブログ http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/ 関連映像 ■渋谷署警察官との事前打ち合わせ@ハチ公 http:/...
-
[新聞報道][お宅訪問!逮捕!!]「麻生さんのおうちを見にいこう」のどかな企画に警察暴力―関係者に聞いた現場の真実(JANJAN記事)(P8・貧困者末端会議&名古屋Pネットのブログ)
Esaman2008/10/27 26日夕刻に行われた渋谷駅前から麻生太郎首相のお宅見学に行くという、ごく平穏な企画は、警察に「無届けのデモ」と見なされ...
-
野良猫に餌をあげたら罰金10万円・・こんな町はペストでも流行っちまいな(えんとひなたぼっこ)
・・って過激なタイトルで不快に思われた方ごめんなさい 【ニュース抜粋】 東京都荒川区は9月19日野良猫やカラス、ハトなど飼い主のいない動物に餌を与...

