あな恐ろしや、鬱病薬「パキシル」
2007年07月01日(日)
猫が顔ばかり舐めるこの季節。鬱病なんていう厄介な病気を患っていた頃、悪化するのは必ず低気圧が接近する時という不思議な法則があって、だからどうもジメジメした天気は未だに苦手。その時の辛さがふと思い出される。
かつてはひたすら隠すばかりだった鬱病が、最近では自ら告白する人も増えてきて、堂々と精神科に通える時代。それでも、心底理解してくれる人は少なくて、中でも、心のあり方をコンコンと説教する友人には閉口した。政府がお膳立てする有識者会議とかなんとか。なんでいつも場違いなこの人がいるのかと思わせる派遣会社の女親分、「過労死は自己責任」なんて馬鹿げたことを平気で口にしていたが、それと似たクチ。
元気な時ならそんなお説教も馬耳東風、いやいやもっと露骨な猫耳西風。ところが鬱病の時は、何もかもが自分のせい。雨が降るのも自分のせい、レストランが混んでいるのも自分のせい。そんな心理状態のところに、これもね、これもよ、これもぜ~んぶアナタが悪いのよ、わかるわね、のダメ押しは、閻魔大王に舌を抜かれるより辛い。いっそその人の舌、エンマ様に抜いてもらいたいと思うほど。
6月28日付け朝日新聞朝刊に、抗うつ剤の「パキシル」服用後に自殺や自殺未遂が増えているという、厚労省の調査結果が掲載されていた。このパキシル、精神科ではごくごくポピュラーな薬。副作用が少ないという触れ込みで、鬱病患者の大半に処方されているらしい。幸い、パキシルを飲んで死にたいと思ったことはなかったが、その副作用は体験済み。
なによりも怖いと思ったのは、飲むと記憶がほとんどなくなること。冷蔵庫を開けると真っ赤なトマト。買ってきた覚えがないから、誰が買ってきたの?と聞くと、今しがた自分で買ってきたんでしょうにと。ところがいくら考えても、車を運転して買い物に行った自分を思い浮かべることができない。車なんて乗ったっけ? で、どこのお店に行ったの?
そんなことがしょっちゅうあって、さすがに記憶の途切れる副作用、これ以上続けたらもともと怪しい脳ミソ、決定的にどうにかなってしまうに違いないと思い、薬の服用中止、カウンセリング中心の治療への移行をお願いした。ところが精神科医、飲めば辛い症状が消えてラクになるのだし、治癒だって早まる、それをやめるなんてとヘラヘラ笑って取り合わない。それなら自分でやめるしかない。
鬱病の薬を突然やめると禁断症状が出て、間が間違えばショック死。だから他人さまには勧められないが、我が身、承知の上での決断。案の定、やめた途端、氷の中にいるような寒さにガタガタ震え、加えて幻覚、幻聴。腕に注射の跡こそないが、「ヤクをくれー」と哀願する、不幸だけを背負って生まれてきたような、哀れなオンナの気分。薬物中毒に効くという漢方を買ってきてもらい、どうにか死地脱出、ほどなく回復したが、いや、ほんとうに死ぬかと思った。
ちょうどその頃、友人のホルン吹き、彼の本業は大学病院の医師だが、会うたびに元気がない。聞けば家庭内のイザコザから鬱病、パキシルを飲んでいると言う。意外なところにパキシル仲間。医師という仕事はルーティンワーク、来るのは大抵風邪っぴきばかりで重症の患者など滅多にこない。だから投与する薬もほぼ決まっていて、どうにか仕事はこなしていると、彼の口から恐ろしい告白。確かこの人の学位論文、ある薬の副作用に関する研究だったと思うが、とんだ紺屋の白袴。
鬱病がこんなに増えている原因、心理学者でもなんでもないから分析の根拠はないが、家庭、会社、地域とあらゆる場面に渡っての社会機能不全、それにも増して、あらぬ化学物質、環境ホルモンが、脳内に何かしら悪さを働いているということなのか。いずれにしてもこの病気、将来を描くことのできる動物に限っての疾患。自殺報道の決まり文句が「将来を悲観して」とあるのは、まさにそれ。
新しい猫を飼ったと同時に、どこかにいなくなってしまうという古猫の話。これなんぞ、飼い主との、未来永劫に渡る平穏な生活をひたすら信じていたのに、愛情の独り占めがもはや叶わないと知り、将来に絶望した猫が鬱病に罹患してのことか。聞くところによると、精神治療専門獣医師なるものもいるらしい。はてさて小難しい生き物。
写真:(上)白黒猫は総じてのんびり屋さん。鬱病にはなりにくいタイプ。(左)折り合いをつけながらの同居。
ココちゃん、家猫になるの記
2007年07月03日(火)
6年間という長い外猫暮らしから足を洗い、ココちゃんが家猫に昇格したのは、つい3ヶ月ぐらい前のこと。どこからともなくこの付近に姿を現したが、その頃はまだ生後2ヶ月ぐらいの子猫。庭先に、チョロチョロと白黒のおちびちゃんの姿が見え隠れするようになった時には、てっきり、どこかで子猫を飼ったものとばかり思っていた。
ところがある日、2軒先の動物好きの奥さん、Sさんと道で会うと、このごろおちびちゃんが庭にいるけど、どこの猫かしら?と尋ねてくる。雨の日は、その家の物置の下で雨宿りをしているらしい。そんな話をしていたら、白黒猫が目の前。ああこれこれ、と二人で指差し、捕まえようとしたけれど、まあそのすばしこいこと。人間にまったく興味がないといういうわけではないらしく、さりげなく二人の周りをウロウロ。
この子、どうやらメス猫。Sさんと顔見合わせ、6ヶ月ぐらいしたら避妊手術をしなくちゃいけないわねえと。手術の日までには手なづかせておきたかったから、それからというもの、とにかく触る努力。姿を見かけるとそっと近寄ってはタッチ。そのたびごとにびっくりして逃げるが、数ヶ月もそんなことを繰り返しているうちに自分から寄ってくるようになり、頭をひとなで、ふたなで、みなで…6ヶ月ぐらい経つと抱けるまでになった。
さていよいよ避妊手術、動物病院に連れていこうと庭先でココをケージに入れていると、そこにピーちゃんの飼い主が現れ、その子、うちで手術をして飼いますからと突然。飼うって…ピーちゃんだってすでに飼っているとは言えない状態なのに。
ピーちゃんはその頃すでに、家の中には入れない猫として暮らしていた。そんなピーちゃんの遊び相手にとでも思ったのか、あるいはメス猫なら家の中で飼えると思ったのか。とんでもない、いずれにしても先は見えている。外猫として飼うなら、我が家で手術をしたほうがよほど最後まで責任を持ってあげられる、そうは言えないから遠まわし。我が家でエサをあげていましたし、かえってご迷惑でしょうからとお断りをして、そそくさと病院に連れてゆき、‘ウチの外猫”という既成事実をこしらえてしまった。
おとなしい子で、だから手術後、外猫のままでいさせるのはかわいそうだったが、当時まだクリという野性味たっぷりのオス猫がいて、それがガブリと襲うのではないかと心配、家に入れてあげる決心がつかなかった。ぐずぐずしながら、ようやく2年目に意を決して家の中。
先住猫は思ったほど関心を示さなかったが、長い間の外猫生活、ココにとっては家の中のほうがよほどストレスらしく、一日中窓をカリカリと磨いて、出る出る出るの大騒ぎ。しばらく様子を見ていたが、却ってかわいそうに思い、外に戻してしまった。それ以後、外猫のまま。
6年目にして突然家の中に入れたのは、ちょっとした事件があったから。我が家に時々エサを食べにきていたトトちゃんが、このごろ姿を見せなくなったと思っていた矢先、こちらも時々エサをもらいにきていたチャーちゃんが、突然唸り声とも悲鳴ともつかない鳴き方をして庭に飛び込んできた。毒を食べたに違いない。Sさんと、病院に連れていってあげようと相談をしていた間に、チャーちゃんはいなくなり、それきり二度と姿を現さない。
猫を捕まえると騒いでいた近所の住人、しばらくは静かだったが、何か行動を起こしたのだろうか。いずれにせよ、何かしらの危機が迫ったのは事実。我が家の外猫のクウちゃんとロミちゃんは、滅多によそに行かないし、助けようにも触ることもできないから、運を天に任せるしかないが、ココちゃんは助けることができる。すぐにココを探しに行き、そのまま家の中に入れてしまった。またしても出る出る出るの大騒ぎが続いたが、今度ばかりは命がかかっているから、断じて外に出すことはできない。どんなに騒いでも知らんぷりを決め込んで我慢をしていたら、最近ようやく落ち着いてきた。
ココちゃん、「はっちゃん日記」のはっちゃんに表情や仕草がなんとなく似ていて、だから時々、あれぐらいの親孝行、恩返しが期待できないものかと、欲かきばあさんの心境。マッド・アマコの「はっつぁん日記」なんてどうかしらと考えたりもするが、う~ん、柳の下に猫二匹・・・は、無理かア。
写真:(上)あごにも黒い模様、ご近所からはアゴちゃんと呼ばれていた。(左)外猫のクウちゃんに冷やかされると、デル!デル!デル!の騒ぎがますます大きくなる。
乳腺腫瘍というにっくき病
2007年07月04日(水)
やまだのママさんは、愛猫やまだちゃんの乳腺腫瘍闘病記をきっかけにブログを始められたとか。実は同じ体験をしている。結婚したばかり、その頃住んでいたマンションの、向かいの草の茂みからミャーミャーと子猫の泣き声。部屋を飛び出してゆくと、‘みかん’と書かれたダンボール箱。その中に、まだ手のひらに乗るぐらいの小さな三毛猫が捨てられていた。
その時につけていたエプロン、柄も色もまだ覚えているが、カンガルーのお母さんのような大きなポケットがついていて、そこに子猫がすっぽり入る。あの頃はまだ、今のようにマンションで動物が飼えるなんて考えられない時代で、どこもペット厳禁。だから、ポケットは子猫を隠すにはうってつけの小道具だった。
部屋に戻り、なにか食べ物をと思っていると、三毛を拾ったのと同じ場所から、またしても子猫の泣き声。もう一度同じ場所に行ってみると、箱の外に三毛と同じ大きさの茶猫がいて、おお泣きをしていた。どうやら兄妹。なんのためらいもなく、こちらもポケット。
二匹とも目も鼻もグチャグチャだったから、早速近くの動物病院に連れていき、手当てをしてもらったが、何気なく選んだこのT動物病院が、後々チャコの運命を変てしまうとは思ってもいなかった。病院長、気骨のある(というと聞こえがいいが、ちょっぴり頑固おやじ)獣医師で、猫2匹を抱き上げ、良かったなあ…と愛好を崩す。三毛猫はチャコ、茶猫はにゃきち。
それまで犬しか飼ったことがなかったが、猫のかわいらしさに魅了され、だから目の中に入れても痛くないというほど甘やかして育てた。特にチャコとの相性が良く、この子といるだけで世の中のすべてが幸せに思えるほどだった。
チャコの体の異変に気がついたのは、飼い始めて9年目ぐらい。チャコを抱きしめると、左の胸に、コリっとした小豆粒半分ぐらいの大きさのしこりに触れる。不思議なもので、その瞬間に、これは悪性のものという直感が働いた。悪い人というのは、会っただけで何となくオゾっとするものがあるが、腫瘍もそんな感じ。
すぐにT動物病院に連れていくことにしたが、その頃は、もう転居していたから、病院まで車で40分ぐらいかかる。近くで探せばいいものを、あの院長の臨床の多さだもの、きっと正しい見立てをしてくれるに違いないと、一途にそう思ってのことだった。
レントゲンも何も撮らないで、ただ手で触り、ああこれは乳腺腫瘍だと。そしてやおら麻酔をかけ、助手とふたりでメスを入れ始めた。少し大きめに切らないと飛ぶぞ、とかなんとか言いながら。こちらは素人だから、きっと適切な処置をしてくれるはずと信頼し、任せるしかなかったが、人間に例えても、それが悪性の腫瘍だとしたら、下手にメスなんて入れていいはずはなく、その後に抗がん剤の投与もなかったから、さすがに心の奥底、平静ではいられなかった。
それからというもの、猫の乳腺腫瘍に関する本をかたっぱしから調べたが、どうみても乱暴な治療。猫の場合、乳腺腫瘍というのはかなり悪性の病気。早晩再発するだろうと覚悟していたら、ものの数週間で3箇所ぐらいに新しいしこり。T病院に連れてゆくと、ああ転移だと。さすがに院長、顔が強張っていて、あんな治療で治るとは、自分でも思っていなかったに違いない。
近くにいいお医者さんがあるからと、ご近所の方に紹介してもらい、早速連れていったが、2度目の手術は難しいと言われ、しかもこれだけ拡がってしまったら、もはや打つ手がありませんよと。そこで抗がん作用のある漢方などはないかと相談すると、動物にも、アガリスクやキチンキトサンの効果が立証されはじめているとか。
使ってみますかと言われて異存のあるはずもなく、早速その粉末をもらい、人間の薬に使うカプセルに分けていれ、朝に晩に飲ませ続けた。それでも症状が改善されることはなく、腫瘍は次第に大きくなり、しまいには破裂して膿をもち、大きく陥没してしまった。
猫だから苦しいとも言わず普段どおり、けれどひどい症状なのだもの、辛くないはずがない。最後にはひどい膿で、抱くにも、タオルでくるまなければならないほどになってしまった。それから2年、チャコは生き続けた。獣医からは、あの状態で2年もよくもったと感心され、きっとアガリスクだかキチンキトサンだかが効を奏したのだろうと言われた。2年といえば、人間にすれば8年換算。
チャコには20年生きてもらおうと思っていたから、11年という寿命はあまりにも短かった。にゃきちはチャコが亡くなると、エサをまったく口にしなくなってしまった。病院に連れていっても、何が原因かわからないと言われ、手のほどこしようもないまま、ほどなくしてチャコの後を追った。
今かかっている動物病院の、最先端の医療技術に接するたびに、あの頃のわが身の無知が悔しく、悲しくてならない。亡き子の年を数えても仕方がないと言うが、しばらくの間は、まだ生きていたのに、まだ生きていたのにと、そればかりを思い、やるせなかった。あきらめがついたのはやっとこのごろ。どう生きても、もう天に召されている寿命。
写真:(上)チャコとにゃきち。(左)拾われて2ヶ月目ぐらいの写真。いつも二人は一緒。飼い主夫婦もまた、この子たちと一緒に若き日を過ごしていた。
追悼・番外編
2007年07月05日(木)
20歳の青年が死んだ。その青年、ある合唱団でテナーを受け持っていた。医学部を受験していたが叶わず、二浪の末、今年、方針を変更して某大学に入ったばかりだった。確か神学部だったと思う。
彼と初めて会ったのは去年の夏、合唱団の打ち上げに同席し、たまたま隣に座ったのが彼だった。その頃はまだ、重度の鬱病に苦しんでいたことなど露知らず、それよりも将来を迷う若さがうらやましく、同じ年の頃、迷い多く、ふらふらとしていたわが身と重ね、甘酸っぱいような気持ちで彼の話を聞いていた。
しばらくして、彼がブログを書いているというので覗いてみたが、書かれていた内容は、夢を語る青年のそれではなく、水槽から飛び出してしまった魚のよう、ただただ生きることにあがきまくる、凄まじいものだった。この先生きていくことなど到底できないのではないかと、読んでいるこちらが苦しくなってしまうほどだった。
何に悩み抜いていたのか、何をどう解決したいと思っていたのか、他人には窺い知ることなど、いやいや当人以外、身内でさえできないことだが、ブログには家族との葛藤、それがトラウマになって逃れられないと記されていた。精神科に行けば薬の量が次第に増えてゆき、最後には14種類だか15種類だかになり、それを手のひらに乗せ、これだけ飲んでいますと、自虐的な報告。
歌が好きで、だから尊敬する歌手のレッスンにも通っていて、上手くなったと褒められては喜び、ドイツの演奏旅行に行き、すっかり世界を見る目が変わったと、殊勝なことを書く日もあったりしたが、間も空けずに、死にたい、死にたいという文字ばかりが並び、自殺未遂をしたと淡々と記す日まであって、いかにも不安定な日々。
合唱団の指揮者は、ブログを見ては、夜中であってもしばしば彼の家に駆けつけていたようだった。一人暮らし、食べるものがなくなったと書けば、一緒に活動をしている仲間が食料品を買い込んで持っていったり、だから、決して彼はひとりぼっちではなかった。それなのに死んでしまった。
たまたま昨日、彼の合唱団の仲間と、当の指揮者に会う約束があり、定刻に行ったが、いずれも時間に遅れてやってきて、その服装は黒づくめ。いやな予感がして、まさか彼・・・と問うと、やっぱり。女性は目を真っ赤に泣き腫らしていたが、彼らが一様に口にした言葉は、あいつ、最後まで迷惑をかけて許せない、と。悲しみよりも、葬儀の間、怒りでいっぱいだったと。
その言葉、憤り、なによりも悔しさ、彼の心に届いただろうか。そう、死んではいけなかった。人間なんて誰しもが苦しい思いを抱え込んでいて、それをみんな乗り越えている、などと陳腐なお説教をするつもりはさらさらないが、人の気持ちだけは裏切っちゃいけない。愛されたことへのお返しは、愛すること。愛することができるまで生きること、死ぬことなんかではなかったのですよ。生きていてほしかった。
心からご冥福を祈ります。
写真(上)ささやかな気持ちを込めて。(左)天上のオルガンの響きの中で、貴方の魂が救われますように。
鳥と猫、明暗分れし強制給餌
2007年07月09日(月)
我が家の、血統書もどき猫のムメちゃんは、おそらくブリーダーか、ペットショップのいずれかが処分に困って捨てた子。親戚の叔父さまが拾って、我が家で飼うことになったが、縫いぐるみのような顔と、ふかふかの毛、こんな優雅な子をこれまでに飼ったことなどなく、なんで捨てられちゃったのかしらと、当初は首を傾げることしきり。
ほどなくしてこの子、エサが自力では食べられないということに気がついた。といっても飼い主、暢気では済まない鈍感さ、そのことに気がついたのは、飼いはじめてしばらく経ってからのこと。缶詰は何をあげても食べないけれど、鶏の胸肉を煮たものは食べていたから、よもやそんな障害をもっているとは思いもしなかった。
前にも書いたとおり、ある時、なんとなく前足を引きずるようにして歩いているのが気になり、骨折していたら大変と動物病院に連れていくと、レントゲンを撮った獣医さん、この子はたぶん栄養まわりが悪かったせいだと思いますが、骨が薄いですねと。骨が薄いなんて思ってもいなかったこと、しかもその原因が栄養不足だなんて。
そう言えば鶏肉、いつもお皿のまわりに少し落ちていて、でもこれ、食べ散らかしだとばかり思い、あまり気に止めていなかった。病院でそう言われ、改めて食べている様子を観察してみたら、なるほど、口の中に入れることは入れるのだが、飲み込むには至らず、大半をお皿の周りに落としてしまう。落ちた鶏肉は、フクが食べて掃除をしていたというわけか!
気づかなかったのは飼い主の落ち度、たくさん猫がいるから、丁寧に猫の食事を見守っているわけにもいかず、ドライフードとネコ缶を朝と晩、それぞれの好みに合わせて定位置に置いておき、各自好き勝手に食べるという方法。だから、誰がどれだけ食べているのか、実はあまりよくわかっていない。食欲があるかないかは、ネコの元気度から推測するぐらい。
ムメちゃん、このままにしておけば弱ってゆくだけ。意を決して朝晩2回、強制給餌を始めることにした。ごはんが食べられなくなった猫には、あごの裏にぺたりと貼りつくような、トロミのあるエサを口の横から入れると、そのまま飲み込むと聞いていたから「ねこまんま」。こしひかりが入っているというふれこみのこの缶詰、おかゆのように柔らかなごはんが上あごにくっついてくれて、ちょうどいい。
頭を軽く左手で抑え、右手の指で口の端をこじあけながら、エサを上あごに素早くなすりつける。上手い具合に食べてくれて、一日分のノルマはらくらく達成。食べる時はイヤイヤをするが、食べ終われば満足、エサを口に押し込むママなんて大嫌いなはずが、すぐに膝に乗せて乗せてとやってくるところをみると、苦痛より、お腹がいっぱいになる幸せのほうが勝っているみたい。
実は強制給餌にちょっとだけ苦い思い出。母が鳥好きで、実家では、セキセイインコだのサクラインコだのボタンインコ、それに十姉妹、文鳥、きんか鳥と、それはそれは、いろいろな種類の鳥を飼っていた。
きんか鳥は小柄でかわいらしいが、オスの鳴き声に特徴があって、いかにも自己主張が強いといったふう。その鳴き声のとおり、小さい体ながら気性が荒く、つがいで飼っていたからしょっちゅう卵を産み、丁寧に暖めて孵すまではいいが、孵ったヒナを親鳥がつついて殺してしまう繰り返し。
ある時、見るに見かねて巣から拾い出し、それこそまだ小指の頭ぐらいしかない大きさ、羽も生えていなければ、黒い目玉だけがぎょろぎょろとしていて、なんとなくグロテスクなヒナに、すり餌を与えることにした。スズメをこの方法で育てたことがあったから、きっと育つだろうと思ってのことだった。
ところがヒナの口にすり餌を押し入れた途端、粒が大きかったのか、ひくっと喉につまらせ、目を白黒させて昇天してしまった。テレビの推理ドラマ、犯人が人を殺した途端、我にかえって、ひえ~っとかなんとか叫び、ナイフを投げ出して後ずさりする場面、まさにあんな心境。
そんな経験があるから、ムメちゃんの強制給餌、窒息したら大変と、最初のうちは慎重そのもの。そのうち慣れてきて、ものの数分で一缶を食べされられるようになり、体重は病院に行った頃の倍ぐらい。不思議なことに、体力がついてきたら、鶏肉を今度は確実に一人で食べられるようになり、掃除係りのフクには別途、もう一枚胸肉を煮てあげなければならなくなってしまった。
エサを食べられない障害があっても、この子の場合は運が良く、たまたま我が家に縁あって命拾い、けれどブリーダーがたくさん産ませる中には、こういった障害を持つ子たちもたくさんいるはず。その子たちはどうなってしまうのだろう。ムメちゃんのお母さんとお父さん、いまごろどこでどうやって暮らしているのでしょうね。元気でいてくれるといいのだけれど。
写真:(上)ようやく一人でエサが食べられるようになり、一安心のムメちゃん。(左)鶏肉を掃除していた牛柄猫のフク。ジュリはドライフード専門。
破った約束の罰を背負わされた犬
2007年07月11日(水)
情操教育という言葉、今でも健在なのだろうか。本を読ませたり、楽器を弾かせたり、動物を飼ったり、そういうことのすべてが子供の情操教育、そんな意識が全盛だった頃、そこに着目した楽器メーカー、都道府県の至る所に音楽教室を開き、生徒を集め、だからあちこちの家庭で、子供にピアノを習わせるようになった。
夕方町を歩けば、どこかしらからピアノの音がして微笑ましかったが、やがてそれが原因の「ピアノ殺人事件」などという物騒な事件が起きて、次第に戦々恐々。その上、決して安くはないピアノ、それでも中学に入ればほとんどが部活を理由にやめてしまうから、ボーナスはたいた親はがっかり。しかも情操教育などという優雅さからはほど遠く、ひたすら練習が嫌だったという、苦い思い出だけが残ったりして。
それでも、ブームが過ぎ去ってもなお、ピアノなら一応は見栄えのする家具。狭い部屋、邪魔になれば「ピアノ高く買います」というあの広告、引き取ってもらえば、僅かではあっても元が取れるし、ピアノも海外に渡って再利用、いずれもそれなりにまあまあ御の字。無機質な物体相手ならこれにて一件落着。
ところが、同じく情操教育だからと動物を飼う親心、これだけは、時として救いがたい結末を招くことがある。10数年前、友人から慌しくかかってきた電話。「子供の同級生の家で飼っている犬、お母さんが保健所に連れていくと言っているらしいんだけれど、どうしよう」と。
最初からこちらにゲタを預けられても、ただただ迷惑な話だが、その人、友人の中で唯一動物が苦手、飼ったことがないというから、それも仕方がないことか。それでも繊細、命に対しては思いやりのある人だったから、飼ってあげることはできないの?と聞くと、彼女にも子供3人、日ごろから犬を飼いたいとせがまれていたところだから、そうしてあげようかしらと。
彼女、それからすぐに引き取りに行ったが、一歩違い、犬の姿はすでになかった。もう少し早く決断していれば助けてあげられたのにと、ずいぶんがっかりしていたが、まったくもって、つくづく運の悪い犬。その時、まだ生後6ヶ月ぐらい。後から聞けば、犬を保健所に連れていった理由が、「教育」のためだと言うのだから、呆然、愕然、憤然。
子供2人、捨てられていた子犬を拾ってきて、面倒を最後まできちんと見るなら、という条件つきで飼うことを許したらしい。情操教育にもなるだろうからと。ところが子供たち、次第に大きくなる犬に飽きてしまい、散歩にも連れてゆかず、放りっぱなし。そこで母親、子供二人を前にお説教をはじめた。
きちんと面倒をみてあげなさい・・・ではなく、面倒をみないのなら、保健所に連れていくというが最初の約束(すごい約束!)、約束は守らなければいけないと。子供たちは泣いて謝り、連れていかないでと懇願したが、約束は約束、その場で保健所に電話をし、連れていったのだという。
ああこうやって書いているだけで、会ったこともない人なのに、無性に腹が立ってくる。この母親にとっては、子供が約束を破ったということの非を教えるためなら、犬1匹の命などどうでも良かったということなのか。学校では評判の教育ママだったようだが、この母親の考える「教育」なんて、所詮「狂育」。
教えるべきは、どんなことがあろうと委ねられた命、最後まで見放してはいけないということ。それが本来の情操教育のはず。それなのに、あろうことかこの母親、モノ言えぬ弱い生き物の命を簡単に見棄てる方法を、子供たちに身をもって教えたのだった。それがどういう結果をもたらすか、いずれ老いゆく身、動かぬ体になって後、子供たちから知らされることになるだろう。
写真:(上)保健所に連れてゆかれる寸前に保護されたミミ。「情操」のために拾うなんて、思いもつかない。ただただ、命を救ってあげたいだけ。(左)人間の手の中で、こうして安心している子を、どうして裏切ることなどできよう。
「猫」の発音は猫に教わるのが一番
2007年07月13日(金)
若い頃(今もたぶん若いけれど)、フランス映画とフランス文学が好きで、だからフランスに向けてずっと熱い眼差し。中学、高校と女子校、ハメをはずさないお行儀の良さが、心根がちょっとばかり不良の身には居心地悪く、日本の情緒的なおつきあいも苦手だったから、高校を卒業したら、フランス語をモノにして、なんとかしてフランスに「逃げよう」と、親にも内緒でそう思い続けていた。なぜか‘逃げる’という感覚。
何をしたいのかなんていうこと、もともと物事を論理的に考えるより、感覚派、行けばなんとかなるぐらいのいい加減さ。絵でも描いて過ごすか、それができなければ、ヒッピーなんていう「職業」が流行っていた時代だったから、そんな生き方でもいいやと。これほど漠然としていて、イメージのない夢なんて、実現するはずがないのが、「逆」マーフィーの法則。
夢を果たすべく某フランス語学校に行き、朝から晩までフランス語に浸る生活、2年間通い詰めたから、よし、これでフランスだ!…と密かにほくそえんでいた矢先、実家にちょっとしたハプニングがあって、フランス行きはあえなく頓挫。
仕方なく大学に行くことにしたが、フランスへの夢は断ち難く、その後もフランス語の勉強だけは細々ながら続けていた。そんなわけのわからない夢ばかり見ている時代なんて、いつか終わる。果たして、結婚して猫だらけの生活になり、どっぷりと日常。語学は使わないでいると日に日に錆びついてゆくと言われるが、まさに緑青ふいて真っ青。
そんな時、コミュニティ新聞に「フランス語教えます」の文字。久々にあの懐かしい言葉に触れたくなり、早速、門をたたいての弟子入り。その先生、フランスの女性雑誌『ELLE』の編集をパリでされていたとかで、右岸ビイキの、ちょっと気取ったおばさまだった。会話中心のレッスン。
フランス語の魅力はなんといってもあの発音。だから、映画を観てはジュブジュブ、シャンソンを聴いてはジュブジュブと、必死で音を真似ていたから、他はともかくも、発音だけはなんとかそれなりの‘つもり’だったのに、この先生、ただひとつだけ、どうしても私の発音でお気に召さない単語があるとおっしゃる。
それが、よりにもよってLe Chat(猫)という単語。シャという発音、いくら工夫しても、腑抜けに聞こえるという。唇を尖らせてみたり、横に広げてみたり、いろいろとやってみるのだが、どれもNon。しまいには、口の形がフランス語には向いていないんだとか、歯の並び方がまずいんだとか、いろいろと外形のせいにしてみたが、どうやらそうではなかったみたい。
Chatの語源は、猫のあの‘フーッ’という威嚇の声とか。あれがフランス人にはシャーッと聞こえるらしい。まあ確かに・・・。だからChatという発音、猫のシャーッを真似すれば良かっただけのことらしい。
そのことに気がついたのはつい最近。それを教えてくれたのが、我が家で一番気性の激しいミイちゃん。しつこく迫るフクが近づくたびに、せいいっぱい威嚇するその声がヒント、真似をしてみると、なるほど結構それらしく聞こえるじゃない。この際、ミイちゃんなんていう古色蒼然たる名前はやめにして、フランソワーズ。
写真:(上)フランス語の恩師。ミイちゃん改め、フランソワーズ。(下)このミイちゃんの姿を見ると、日本の「猫」の語源は、「寝る子」なんだと改めて思ったりして。
カエルの歌が聞こえてこない
2007年07月15日(日)
台風4号が今日午後にはこの地域を直撃すると言われていて、天気図を見ると「目」の中に入りそうな気配。昨日、小康状態のうちにと、外猫の小屋をロープで厳重にしばり、それでも、風速60メートルというから、なにもかも、猫ごと吹き飛んでしまうんじゃないかと心配だったが、逸れたらしく、今はスズメも鳴き始めたし、ヒグラシも。
雨の日の外猫たち、どこでどう過ごしているのかと、小屋にいない時には心配になるが、雨がやんで庭に戻ってきても、ずぶ濡れになっている子などいなくて、それどころか、雨に打たれたふうもなく至極きれい。雨の入らない秘密の場所があって、そこで雨宿りをしているのか。
じめじめとした雨ばかりの天気が嫌なのは、外猫たちがかわいそうだから、という理由の他にもうひとつ、ここは田んぼの多い田舎。道にカエルの大軍団が現れるのが、これまたほんとうにイヤ。
小さい頃はカエルをしょっちゅう捕まえては、水槽で飼い、ガラスにぺったりとくっつく時の、吸盤のついたかわいらしい足に見とれていたりしたから、カエルそのものが嫌いというわけではない。
カエルのことではちょっとした思い出。中学校の生物の時間、カエルを解剖する授業があった。先生が用意した大きなガマガエル、班に1匹ずつあてがわれて解剖をする。どうやって解剖したのかは忘れてしまったけれど、生きているカエルの手足にピンを刺した記憶だけはあって、嫌な思い出。あれって、まさに「生体解剖」。
その日、先生が余分に捕まえてきたカエル2匹、別のクラスの授業に使うからと、水槽の中に入れられていた。小さなカエルだって、これから解剖されることがわかっているものを、目にしているのは辛いが、それが大きなガマガエルならなおさら、しっかりと感情移入・・・助けてあげなくちゃ。
そこで一計。先生がちょっと教室を離れたスキに、友人と二人、水槽からガマガエルを持ち出し、校庭に逃がしてしまった。両脇を抱えると(それぐらい大きかった)、ネズミを獲れない猫もどき、両手足を無防備にだらりとしていた様子が今でも目に浮かぶ。
理科室は校舎とは別棟、平屋で裏口がついていたから、逃がすのは結構簡単。次の授業まで、先生が気がつく恐れはなかったし、だから犯人も特定できなかっただろうけれど、そんな破天荒なことをする女子学生、だいたいの察しはついていたか。今思えば子供の浅知恵。授業に使う予定があったのだから、いずれ他のガマガエルが犠牲になるだけのこと。
そんな思い出のあるカエルだから、雨の降る夜、車の運転をしていて田んぼ道にさしかかり、カエルの大群が道路を横切るのに出くわすと、自然に憧れての田舎暮らしだったはずなのに、後悔することしきり。
道路といってもそれほど広くはなくて、車2台がやっとすれ違えるほど。その道を、こちらの田んぼからあちらの田んぼへと移動するために使うカエル達。その数は半端じゃなくて、道路一面だもの、避けようったって避けられない。カエルをプチプチと轢きながら走るしかないという、「カエル地獄道」。
ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で呟きながら車を走らせるしかないのだが、車のライト、これがカエル1匹1匹の顔を鮮明に浮かび上がらせてくれて、実にリアル。ちっぽけながら、こちらを向くカエルと目が合うことしばしば、思わず急ブレーキを踏みたくなるが、ブレーキを踏んだところで、目の前のカエル、よけられるはずもない。
それに、たとえそのカエル1匹が助かったところで、道路に拡がるその他大勢、どうやったって助かりっこない。まあ、卵から孵って立派な大人ガエルに成長するのはごく一部。天敵だらけの娑婆のこと、生き残るのは余程の強運。だからこそ大量の卵、大量のおたまじゃくし。自然の摂理は上手くできている、といい方に解釈するしかないか。
それにしても、十年ぐらい前にはもっとたくさんいたはずのカエル、ここ数年でぐんとその数が減っている印象。我が家の庭でカエルを見る機会など、今ではほとんどなくなってしまった。そういえばヘビも減って、ジンが生きていたころはさながら「マングース対コブラ」、ジンとヘビの闘いが見られたものだが、これももうまったく見ていない。
このあたりの農家、米作りに農薬を通常の半分量しか使わないのがウリ。それでも農薬散布の目印、黄色い旗が田んぼにヒラヒラしている光景は変わらないから、少なからず生態系は壊れているはず。他には紫外線の増加や酸性雨などというのも、カエルの減少の原因とみられているらしいが、いずれも人為的な環境破壊の結果。
身近なカエルにしてこの危機、自然の中からひとつずつ姿を消してゆく生物がいるという事実は深刻、人間もいつか…と思ったりして。
写真:(上)蛙って、結構かわいい顔をしていて、目があうと世間話のひとつでもできそうな雰囲気。(下)ヘビを捕まえるのが得意だったジン。「キャー、ヘビ!ジーン!!!」と叫ぶと、必ず助けにきてくれた。
災害に遭う動物を思う人、救う人
2007年07月17日(火)
なんだか最近ちょっと静かで不気味、そう思っていた矢先、新潟県中越沖に大きな地震。その規模、震度6強、マグニチュード6.8、震源の深さは極めて浅くて約17キロというから、どれほど激しい揺れだったか想像できようというもの。
災害にあわれた皆様に、心からのお見舞いを申し上げます。
2004年10月23日、近隣地域で同様の規模の地震があって、正式名称は「新潟中越地震」。その地震では70名近い方が死亡し、負傷者約5千人、避難者が約10万人、住宅損壊が約12万棟という大被害。現在もなお復興作業途中らしく、「震災復興ビジョン」なるものが策定され、実行に移されようとしている段階での今回の地震。死者は今のところ7名。
死者については、たった一人であれ、それが何百人であれ、命を亡くされた方がいるという事実は重く、だから、被害が少なかったと書いて良いものかどうか迷うが、その7名、すべてが70歳代、80歳代の高齢者というのは、痛ましい。家が老朽化していたための家屋倒壊、それが原因と新聞には書かれていたが、老いて不自由な体、逃げるに逃げられなかったのだろう。
ある夫婦、夫は不自由な足を抱えて逃げ遅れ、奥の部屋には、寝ていたらしい老妻が生きて残された。お互い自由のきかない身、二人でどんな暮らしをされていたのか。暗い部屋でこれまでの人生、思い出すでもなく天井眺めての暮らしだったのかと、その生活、余計なこととは思いつつ想像し、新聞の記事に目が留まったまま。
人の、災害被る姿を見るのが辛いのは言うまでもないこと、何かできることはないかと、ない知恵を絞るが、もうひとつ、動物好きにとっては、避難場所に姿見えない動物たちのことがやたらと気になる。2000年6月26日、三宅島の噴火。この災害時にも頭に浮かんだのは動物たちのことだった。
全島に避難勧告、すぐに戻れると思って犬は繋いだまま、猫は家の中に閉じ込めたままで避難した人が多かったと聞く。今でも覚えている新聞の写真、船で避難する中年の女性のリュックから顔を出す猫、名前は確か「音吉」、典型的な日本猫。
こうして人間と一緒に避難した動物は幸い。翌27日の段階で当地の保健所が行った調査集計によれば、避難勧告が出されていた地域の登録犬は125頭、 そのうち避難所に連れてきた犬はわずか38頭、猫などの小動物は不明。
こうした時の動物愛護団体の活動はすばやく、しかも命知らず。有毒ガスの満ちた島、残された動物を保護するためのケージが不足していると、知人の動物愛護団体から、災害発生後ほんの少したってからFAXが送られてきた。すぐに我が家にあったケージを送ったが、どんな子があのケージに入れられて避難したのか、無事、避難できたのだろうかと、気が気でならなかった。
悲しいことに実行力乏しく、自らすすんで救護活動には参加しようとしない身、それがなんとなく後ろめたかったりもするが、できるだけのことをする、それしかないのだと卑怯者の言い訳。それからしばらくは置き去りにされた動物、保護された動物たちの様子、団体の活動状況を知らせてもらっては、安堵したり悲しんだり。あれからもう7年。
被災地でのペットの扱い、この時の経験が生きたのか、その後は行政もペットの避難に心配り。先の新潟中越地震、被害の大きかった山古志村では、自衛隊の輸送ヘリで避難する住民、そこには犬の同乗する姿もあった。
さらには「新潟県中越大震災動物救済本部」が、日本動物愛護協会主導で設置されたり、新潟県獣医師会は被災動物のうち、応急手当を行った動物の診療費は無料と太っ腹。ペットと人間の絆、災害時であってもなお絶ち難く、むしろ、そんな時だからこそ側にいたいと願う飼い主の心理が、ようやく理解されたのか。
天災が起きての重篤な事態、復興ままならない時期に優先すべきは人間、動物のことを心配するなんてと非難するヒトの一人、二人。簡単な言い訳をするなら、それでも、人間は温かい同胞の応援を背に、なんとか窮地を脱することもできようが、動物はその命、人間の手に任せっきり、死ぬも生きるも人間次第。人も動物も災害の中、なんとか生きられるようにと望む思いは同じ。
人の受けた被害の大きさ、避難生活の辛さに深く思いを馳せつつ、動物に心寄せるこの心境、どうぞお許しのほど。
写真:(上)三宅島に送った同型のケージの写真を撮ろうと思ったら、たちまちのうちに占拠されてしまった。(下)普段は扉をはずしてミイちゃんの寝場所。災害時は、大きなケージ2個に4匹ずつ分けて避難しようと思ってはいるものの、相性もあって、どう分ければいいものやら。
猫は産む機械?
2007年07月20日(金)
昨日は麻生外務大臣の「アルツハイマー」発言、ついこの間は柳沢労働大臣の「女性は産む機械」発言と、次から次に飛び出す軽率な言葉の数々、許しがたいのは言うまでもないが、食するモノがいれば、それをまた食するモノがいるという食物連鎖、大衆庶民を見下しているつもりの政治家も、いまや知性退廃の象徴、「政治家」という言葉そのものが、すでに差別用語化しつつあるということに気づいていない。
「産ませる機械」の柳沢大臣以上に失礼な発言をしているのが、劣化甚だしい東京都知事の石原慎太郎。慎太郎サン、ほんとうに小説家なのかと思うほど言葉を選ぶことのできないお方。まあ、小説家といったって、「太陽の季節」なんていう猥褻本、買って大損、読んだ時間がもったいなかったと、本気で後悔したものだったけれど。
その慎太郎サン、生殖能力を失った女性が生きているのは無駄で罪、だの、男は80、90歳でも生殖能力があるが、閉経した女性は子供を生む能力もないから生きているのは地球にとって非常に悪しき弊害、だの、文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ、だのと言いたい放題。ババア発言は他人の受け売りだったと逃げたが、共感したからこその発言。
こんな都知事の下で働いていた、つまり都庁のお役人さんだった友人、ババア発言で怒り心頭、辞表を叩きつけてやめてしまった。彼女その時40代後半、とうに結婚しているが子供はいない。だから都知事の発言にいたく傷つき、許せなかったのだろう…と思いきや、彼女のライフスタイルは自らが選択したもの、だから誰に何と言われようと揺らがない。それよりなにより、こうした言葉がスラスラと口をつく品性のなさに心底嫌気がさし、そんな人物に仕えてなるものかと。
それにしても柳沢労働大臣しかり、石原都知事しかり、どうしてこうも女性が子を産むことにばかりに執着するのか、この男どもの思考回路は理解不能。労働大臣だもの、将来の労働生産の担い手がいなくなる国家への危惧は当然、と庇ったところで、ケージ飼いの鶏じゃあるまいし、毎日毎日玉子ばかり産んでなどいられるものか。
アルツハイマー発言から産む機械発言、そして石原都知事へと話がどんどん逸れてしまったが、実はこれが本日の本題ではなく、書きたかったのは猫の出産。見慣れない、サビ猫ふう三毛キジさんが、生後3ヶ月ぐらいの茶トラの子を連れて我が家の庭に遊びにきていて、またしても頭がキーンと痛くなっているという話。
数日前、二軒先のSさんがメールで「茶キジの子猫を見かけたけれど、知ってる?」と。見たことがなかったので、知らないと返事を出したその直後、この子のことですと、母さん猫が子猫を連れて挨拶にやってきた。
もう外猫は勘弁、今いるクウちゃんとロミちゃんでおしまいと思っているのに、なぜか猫という動物、次から次へと湧き出ててくる。もううんざり、嫌だ嫌だと思いながら、庭でスズメを獲ろうとしている子猫の姿の愛らしさに、つい口をついて出てしまうのがかわいい!という言葉だもの、処置なしか…。
さて、本気で困った。まだ母さん猫に甘えて、おっぱいを時々吸っているだろうから、あと一ヶ月の猶予。その後、とにかく母さん猫をなんとしてでも「捕獲」し、避妊手術に連れていかなくちゃならない。それにしても1匹しか産まないわけはなく、他の子たちはどこにいってしまったのか。
柳沢サン&慎太郎サン、猫なら次から次へとお望みどおり、いっそのこと猫を国民・都民と認めてはどうでしょう。アタマ数だけは確実に増えること間違いなしの猫算。
写真:(上)部屋の中から撮ったチビちゃん。我が家のイングリッシュガーデン(ただ手入れをしていないだけ?)でおすまし。(左)正面から。かわいい!
ない子で苦労はしないと言うけれど
2007年07月26日(木)
このあいだの日曜日、荻窪まで電車で出かけ、急いでいたから、途中の御茶ノ水で快速に乗り換えたまではよかったが、たまたま乗ったその車両、子供の泣き喚く声の満ち満ちたトンデモ車両。当の男の子は2歳ぐらい、3歳ちょっととおぼしきお姉ちゃんとお母さんの3人連れ。
最初は、騒々しい親子だなあという程度、ところが次第に耳をつんざく子供の悲鳴、それが絶え間なく続くのにいささかウンザリ。あまりに聞き分けのない我儘ぶりと、それを叱りきれないでいる母親に苛立ち、いっそ車両を代えようかと思ったぐらい。
言葉はまだカタコトだから、要求の内容は不明。でも、どうやら履いている靴下が気に入らないらしく、脱いでは放り投げ、放り投げては拾いの繰り返し。そのたびごとに、電車の天井が抜け落ちてしまうのではないかと思うぐらいの嬌声を張り上げる。
のみならず、信濃町あたりからは、靴下を履かないなら電車の中に置いてゆくわよ、と母親も怒鳴り始めたから、騒々しさは加速するばかり。子供、どれほど急かされようと靴下を履く気配はなく、裸足のまま床を転げまわって泣くばかり。ご一行様降車駅の新宿に着き、ドアが開いてもそのまま。
母親、この騒ぎなど一向気にならないらしいお姉ちゃんを抱きあげ、先に降りてしまった。残された男の子、どうするのだろうと眺めていると、慣れたるもの、わーんと泣きながらドアの閉まる直前にホームに転げ降りた。寝たままの姿勢でゴロゴロと。はあん、いつものことなのね。
やれやれ…と誰もが、胸をなでおろし、ようやく車内に静寂が戻ったその時、高齢のご婦人が一言「ああ、うるさかったわねえ」と、まことに正直な心情吐露。乗客、きっと心の中でこのご婦人に「座布団一枚!」。
公私の区別にうるさい古い親に育てられ、だからなのか、静かにできない子供は大の苦手、それが嵩じて、子供そのものが得意ではないのだが、でも最近は年のせいか、もし子供がいたらどんなふうに育っていたかしら、親の思惑通りに育ったかしらと思うことも。子育て、そうそう上手くいかないのが世の常、だから案外苦労しているに違いない。「るッセイ、ババア」とかなんとか言われたりして。
母が最晩年まで口癖のように言っていたのが、「ない子で苦労はしないのよ」という言葉。養女を貰って苦労した作家の話をする時、必ず引き合いに出していたが、実は自分の体験、思うところを言葉にしていたのではあるまいか。これ、子供心に引っかかっていたらしく、思いのほか深い傷、今だに、母親にとって「不肖の子」だったのかもしれないと、思うことがある。
今生は子育てに縁はなく、もっぱら猫育て専門。「ない猫で苦労はしない」という言葉が、時々心をよぎることもあるが、ある猫で苦労するのもこれまた幸せ。手のかかる子(猫)ほどかわいいというのも、真理。
写真:(上)フクちゃんは素直に育ってくれて、ほんとうにいい子。(左)これだけ慕われれば猫親冥利に尽きるというもの。なぜか男親の人気絶大。
暑い夏の寒いお話
2007年07月27日(金)
あまりに暑苦しい長毛種のムメモちゃん、本日「床屋さん」。何もこの季節にファーを纏って着飾ることもあるまいと、それはそれは短く刈り込んだが、まさに虎刈り、そして尻尾はいつものライオンカット。床屋さんの名前は「東京バーバー」。ここは田舎だから、「東京」という名前を入れてお洒落にしたつもり、なんとか銀座というのと一緒。
関東地方、まだ梅雨明け宣言はされていないが、数日前からカンカン晴れ。抜けるような空の色は真夏を通り越して秋空だから、きっと、とっくに梅雨は明けているのだろうけれど、気象庁、宣言する自信がないのかしら。
時代は進んでも、天気予報が当たる確率だけは昔とそれほど大差がなく、放り投げたゲタの表が出れば晴れ、猫が顔を洗うと雨と、そんな民間似非天気予報のほうが、未だによほど的中率が良かったりして。もっとも、猫は食後のたびに顔を洗っているから、この気象予報士の予報はちょっと眉唾もの。
7月初旬は肌寒い日もあって、てっきり冷夏になると思っていたけれど、そんなこともなく、どうやら猛暑。人間ならエアコンだのクールビズだのと、暑さから身を守る策を講じることができるが、犬猫はそうもいかず、特に繋がれていて自由のきかない犬は哀れなこと、このうえない。
もう10年ほど前、駅に向かう道、その道路際のフェンスに犬を繋いでいる家があって、犬の横にはプラスチックの犬小屋。横を通るたびに目に入るが、飼い主が声をかけている姿をついぞ見かけたことはなく、冬も夏も繋がれっぱなし。側に木の一本もないから、真夏は太陽光線の直撃を受け、それでも逃げる場所などどこにもなかった。
その子、すでにずいぶん年をとっていたのか、2年、3年と過ぎたころから腰が曲がりはじめ、足腰がめっきり弱くなり、歩くのがやっと。夏はげんなりとした様子だったが、いつもあきらめ顔。これだけ年老いた犬、日陰に置いてあげようという飼い主の気遣いに期待をかけたが、一向にその気配はなく、庭には丹精な花、花にかける気遣いのほんの少しでも、なぜ犬にはかけくれないのかと、そのチグハグな心理を図りかねていた。
そのうち、目に見えて激しい衰弱、余命、どうみてもあと僅かとしか思えないほどふらふら、足を踏ん張り、どうにか小屋から出てくるその姿が痛ましく、それでもどうにもしてあげられない身。その家のすぐ横が信号だったから黄色なら強行突破、見ないにかぎるから、赤信号で止まらないようにと家を出るときに呪文。
ある日、その犬の姿が見えなくなったと思ったら、犬小屋の入り口にブロックが積まれた。もう、出ることも入ることない犬小屋。わずか1メートル余りの不自由な世界、楽しいことなんか何もなかっただろうにと、その子の一生をかわいそうには思ったが、これで鎖からはずされ自由の身、やっとあの子も苦しみから解放されたと、むしろほっとしたような、そんな思いのほうがずっと大きかった。
あれからもう何年にもなるが、主のいない犬小屋はそのまま。暑い夏がやってくると、今でもあの犬のことを思い出す。もの言えぬ動物、飼われた恩義を感じているのか、抵抗ひとつしないけれど、自分の身に置き換えれば、なにをして欲しいのかわかりそうなものをと、犬の代わりに悔し涙。
ペットとして飼い馴らされたものの、断固繋がれることを拒否した猫のなんという賢さ。
写真:(上)東京バーバー仕込みのムメモちゃん。ハサミでカットした体はシマシマ。でもこれでちょっとは涼しくなったはず。(左)ライオンカットのしっぽ。
ニッポン、居よいか住みよいか?
2007年07月30日(月)
東京のとある教会でバッハのカンタータを演奏してきた。たまたまドイツから一時帰国していたバイオリニストも参加していて、休憩時間には、30年間生活したドイツを離れ、いよいよ日本に帰ろうかどうしようか迷っているという話になった。パートナーはドイツ人。
日本の音大を出た後、ドイツのプロのオーケストラに縁があって就職、当初2,3年で帰るつもりが、あっという間の30年。どれほど海外の生活に馴染んだ人でも、年とともに日本に帰りたくなるものらしく、ご他聞に漏れず、彼女も日本が恋しくなってきたが、帰国の決心がつかない。日本は危ないでしょう、だから・・・と。
治安のことではなく、右傾化してゆく日本への危惧。いつ有事が起きるとも限らず、決心がつかないと言う。その時居合わせた7,8人の仲間、その発言を、誰ひとりとして楽観的には受け止めず、本当にどうなるかわからないから、ドイツの家を引き払ってしまわず、日本と自由に行き来できるようにしておいたほうが良いと、それが全員一致した答え。
特に左巻き集団というわけではなく、ただただ音楽好きが集まっているだけで、政治の話をすることなど滅多になく、どちらかといえば世事に疎い連中。そんな集まりでありながら、そのうちのひとりとして、今の日本の為政者、政治、政府そして国家に信頼を寄せていないということなのか。
確かに今の右傾化、日本のファシズム形成期であった1930年代の状況とよく似ている。小泉純一郎という、論理的思考あるやなしやの前首相が、自民党をぶっ壊すと叫び、壊したほうが良いほどの政党なら、なにもいまさら支持することもなかろうにと常識的には考えるが、逆に支持層を増やしたというわけのわからない話。
国民は、ぶっ壊すという言葉の持つ、ダイナミックな「破壊」の響きに酔いしれ、権力者の首を取るでもない脆弱な「革命」を幻視、いもしない英雄、いやむしろ本来ならば首を取られるべきはずの「獅子」の吐くケムに巻かれてしまった。見事なポピュリスト。
その手練手管に乗せられてなるものかと、危機感抱いた少数の国民は、あわやのファシズム台頭に必死の抵抗を試みたが、民主主義政治は究極の多勢に無勢、その無力感だけが残る結果となった。
これを機に若者は排他主義、排外主義へと向かったが、その若者、元を質せば小泉改革の落とし子たち。「格差社会」のなれの果て、いずれ優位に立つことなどできないと気づき、せいぜい「シナ」と隣国を蔑み、かろうじてその悪しきプライドを満足させるという、虎の威ならぬ、獅子の威を借りての似非ナショナリスト。
満州侵略(満州事変)の際に石原莞爾ら、「民衆の戦争支持熱の高揚こそが、錯綜する局面打開の鍵」としたが、勝利の報に、さらなる戦争支持、排外主義へと調子づき勢いづいていった民衆。まさに同じ手法。
忘れてならないのがこれに加担したジャーナリズム。満州事変以前には「武力がオールマイティであった時代はすでに過ぎ去っている」(昭和6年8月8日付)という社説を掲げ、もっぱら軍縮を主張していた朝日新聞が、同じく10月の重役会では「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及ビ軍事行動ニ対シテハ絶対非難批判ヲ下サズ極力之ヲ支持スベキコトヲ決定」と、一転。
ラジオのコメンテーターには御用学者や御用ジャーナリストがしばしば登場し、戦争の正当性をしたり顔に語って国威発揚、精神主義を鼓吹したが、今また御用学者・御用キャスターの、テレビにこぞって顔を出し、口角泡を飛ばしながら政権擁護するのに似ている。今が「戦前」だとすれば、「戦後」には打って変わって自由主義者のふりをするであろう、卑劣な輩の台頭する時代。
国家があるかぎり、国民の永久の平和など決して保障されはしないが(この矛盾…)、「歴史は繰り返される」というのが事実だとすれば、今の日本はさしずめ休火山。危うい日本。
「国のため」に戦おうなどという殊勝さはなく、戦争をしたいのなら時の権力者と一族郎党、率先して前線に行けばいいじゃないのと、その程度。「死の商人」を太らせるため、そして、利権に群がる為政者のために命を投げ出す気など、さらさらない。
だから、いざとなったらどこかの国に移住しよう、ニュージーランドなら気候もいいかしらと考えたりもするが、問題は猫。動物の検疫には殊のほか厳しいお国柄、30日もの検疫期間、老猫に耐えられるはずがない。一家揃っての海外脱出には難題山積、だとすれば、有事なき日本での安住確保のため、せいぜい時の悪政に抵抗。
(参照文献:『戦争とジャーナリズム』茶本繁正著,1991年,三一書房)
写真:(上)戦争のある国には犬や猫の姿がないと、かつて何かの本で読んだことがある。窓辺に猫のいる風景のなんと平和なこと。(下)戦争になったら、平和の使者、ウルトラニャン!ムメモの登場に期待しよう。それにしても、どうしてこんなふうに目が光るの?
猫も欲しいワ、投票権
2007年07月31日(火)
29日は参議院選挙、午後から大荒れの天気予報だったから昼食を済ませ、早々に投票所へと車を走らせた。田舎のこと、投票所にはぽつりぽつりとしか人が現れず、さてこの分だと相当に低い投票率、開票結果も期待はずれに違いない、見れば腹も立ちそうだからと、しばらくテレビもつけずにそのまま。
実際には、期日前投票に行った人が約1000万人、それも含めると投票率は58・64%になったというからまあまあ。投票日が夏休みにズレ込んだ上に、およそ3割もの自治体が投票時間の繰上げ、どうやら投票率を下げようという魂胆がミエミエ、自民党、選挙がそれほど怖かったのか。もはやこの時点で精神的敗北、これが相撲なら気合負け、取り組みの前にすでに勝負はついていたようなもの。
ふたを開ければ民主党の圧勝、勝って僅差、案外負けるんじゃないかと思っていたから、民主党の勝利は意外な結果。国民の審判が下ったと盛んに言われているが、しかしこれ、小泉前首相に80%という、異常ほどの主体性なき支持率を示した国民だもの、またしても気まぐれ、風に流されただけなのではないかと、信用ならない。揺らぐことのない明確な判断材料をもって、自民党にNOを突きつけたのか。
それにしても安倍首相、故岸首相の怨霊でも乗り移っているのかと思えるほど、その政治的手法が酷似。ここにきての数々の強行採決、もとはと言えば岸のオハコだった。1956年には教育委員会法案の強行採決、1959年にはベトナム賠償協定の強行採決、そして1960年5月19日には、国会の会期延長と新安保(安保改訂)承認の強行採決、そのいずれにも警官隊を導入、暴力的な鎮圧行動を取りつつ、隙を縫っての強行採決だった。
安倍首相、こうした強行採決を行った結果、岸の支持率が戦後最低の12パーセントにまで落ち込んだことを知らないはずはあるまい。「あの流儀でやれば徴兵制度の復活だろうが、或いはまた戦争さえも強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と語ったという野上彌生子の危機感は、安倍首相にもそっくりあてはまる。
江藤淳の「もしここでわれわれ(国民)が勝てば、日本人ははじめて自分の手で自分の運命を選びとることができるのである」という記述、今回の選挙がまさにそれ。自民党の長期腐敗政治を放置、放任してきた国民が、ようやくその愚に気づき、自ら変化を求めたということ。戦後レジームへの改革を安倍首相の手に委ねたところで、所詮戦前レジームへの回帰。ならば国民の手で、戦後レジームなるものを再構築と、そこまで思ったかどうかはわからないが、それが理想。
しかしまあ、国民の投票行動は文字通り「現金」なもの。改憲を声高に叫び続け、その前哨戦としての国民投票法案強行採決。これ、実は大変な暴挙だと思うが、それについてはさほどの危機意識はなかったのか、自民党吊るし上げにまでは至らなかった。
自分の懐に直結する年金、お金のことになって、ようやく自民党政治への批判が展開されたのだとしたら、まさに金の切れ目が縁の切れ目、芸者とダンナの世界。まあ政治もミズモノ、ご贔屓筋のおひねり(献金)で成り立っていると考えれば、それもありか。
ところで今回の選挙の争点であったはずの改憲問題はいずこやら、その行方が大いに気になるところ。民主党が野党第一党になったところで、ネオコン一派が蠢いているかぎり、油断ならない政党、そう思っていて間違いあるまい。権力監視の役割を担うはずのジャーナリズムはもはや信用ならず、だとすれば国民が監視するしかテはない。
つくづく思ったのが、猫にも選挙権を与えてくれればいいのに、ということ。我が家の猫たちの8票も「美しい国、ニャッポン」のためにぜひぜひ活かして欲しいところ。惜しむらくは文字が書けないこと、無効票だらけ。
(参考文献:『<民主>と<愛国> ─戦後日本のナショナリズムと公共性─』小熊英二著,2005年,新曜社)
写真:(上)みなさーん、投票には行きましたか?(左)寝てましたア・・・。
プロフィール
ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。
