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カテゴリー:政治と猫

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ニッポン、居よいか住みよいか?

2007年07月30日(月)

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東京のとある教会でバッハのカンタータを演奏してきた。たまたまドイツから一時帰国していたバイオリニストも参加していて、休憩時間には、30年間生活したドイツを離れ、いよいよ日本に帰ろうかどうしようか迷っているという話になった。パートナーはドイツ人。

日本の音大を出た後、ドイツのプロのオーケストラに縁があって就職、当初2,3年で帰るつもりが、あっという間の30年。どれほど海外の生活に馴染んだ人でも、年とともに日本に帰りたくなるものらしく、ご他聞に漏れず、彼女も日本が恋しくなってきたが、帰国の決心がつかない。日本は危ないでしょう、だから・・・と。

治安のことではなく、右傾化してゆく日本への危惧。いつ有事が起きるとも限らず、決心がつかないと言う。その時居合わせた7,8人の仲間、その発言を、誰ひとりとして楽観的には受け止めず、本当にどうなるかわからないから、ドイツの家を引き払ってしまわず、日本と自由に行き来できるようにしておいたほうが良いと、それが全員一致した答え。

特に左巻き集団というわけではなく、ただただ音楽好きが集まっているだけで、政治の話をすることなど滅多になく、どちらかといえば世事に疎い連中。そんな集まりでありながら、そのうちのひとりとして、今の日本の為政者、政治、政府そして国家に信頼を寄せていないということなのか。

確かに今の右傾化、日本のファシズム形成期であった1930年代の状況とよく似ている。小泉純一郎という、論理的思考あるやなしやの前首相が、自民党をぶっ壊すと叫び、壊したほうが良いほどの政党なら、なにもいまさら支持することもなかろうにと常識的には考えるが、逆に支持層を増やしたというわけのわからない話。

国民は、ぶっ壊すという言葉の持つ、ダイナミックな「破壊」の響きに酔いしれ、権力者の首を取るでもない脆弱な「革命」を幻視、いもしない英雄、いやむしろ本来ならば首を取られるべきはずの「獅子」の吐くケムに巻かれてしまった。見事なポピュリスト。

その手練手管に乗せられてなるものかと、危機感抱いた少数の国民は、あわやのファシズム台頭に必死の抵抗を試みたが、民主主義政治は究極の多勢に無勢、その無力感だけが残る結果となった。

これを機に若者は排他主義、排外主義へと向かったが、その若者、元を質せば小泉改革の落とし子たち。「格差社会」のなれの果て、いずれ優位に立つことなどできないと気づき、せいぜい「シナ」と隣国を蔑み、かろうじてその悪しきプライドを満足させるという、虎の威ならぬ、獅子の威を借りての似非ナショナリスト。

満州侵略(満州事変)の際に石原莞爾ら、「民衆の戦争支持熱の高揚こそが、錯綜する局面打開の鍵」としたが、勝利の報に、さらなる戦争支持、排外主義へと調子づき勢いづいていった民衆。まさに同じ手法。

忘れてならないのがこれに加担したジャーナリズム。満州事変以前には「武力がオールマイティであった時代はすでに過ぎ去っている」(昭和6年8月8日付)という社説を掲げ、もっぱら軍縮を主張していた朝日新聞が、同じく10月の重役会では「国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及ビ軍事行動ニ対シテハ絶対非難批判ヲ下サズ極力之ヲ支持スベキコトヲ決定」と、一転。

ラジオのコメンテーターには御用学者や御用ジャーナリストがしばしば登場し、戦争の正当性をしたり顔に語って国威発揚、精神主義を鼓吹したが、今また御用学者・御用キャスターの、テレビにこぞって顔を出し、口角泡を飛ばしながら政権擁護するのに似ている。今が「戦前」だとすれば、「戦後」には打って変わって自由主義者のふりをするであろう、卑劣な輩の台頭する時代。

国家があるかぎり、国民の永久の平和など決して保障されはしないが(この矛盾…)、「歴史は繰り返される」というのが事実だとすれば、今の日本はさしずめ休火山。危うい日本。

「国のため」に戦おうなどという殊勝さはなく、戦争をしたいのなら時の権力者と一族郎党、率先して前線に行けばいいじゃないのと、その程度。「死の商人」を太らせるため、そして、利権に群がる為政者のために命を投げ出す気など、さらさらない。

だから、いざとなったらどこかの国に移住しよう、ニュージーランドなら気候もいいかしらと考えたりもするが、問題は猫。動物の検疫には殊のほか厳しいお国柄、30日もの検疫期間、老猫に耐えられるはずがない。一家揃っての海外脱出には難題山積、だとすれば、有事なき日本での安住確保のため、せいぜい時の悪政に抵抗。

(参照文献:『戦争とジャーナリズム』茶本繁正著,1991年,三一書房)

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写真:(上)戦争のある国には犬や猫の姿がないと、かつて何かの本で読んだことがある。窓辺に猫のいる風景のなんと平和なこと。(下)戦争になったら、平和の使者、ウルトラニャン!ムメモの登場に期待しよう。それにしても、どうしてこんなふうに目が光るの?


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猫も欲しいワ、投票権

2007年07月31日(火)

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29日は参議院選挙、午後から大荒れの天気予報だったから昼食を済ませ、早々に投票所へと車を走らせた。田舎のこと、投票所にはぽつりぽつりとしか人が現れず、さてこの分だと相当に低い投票率、開票結果も期待はずれに違いない、見れば腹も立ちそうだからと、しばらくテレビもつけずにそのまま。

実際には、期日前投票に行った人が約1000万人、それも含めると投票率は58・64%になったというからまあまあ。投票日が夏休みにズレ込んだ上に、およそ3割もの自治体が投票時間の繰上げ、どうやら投票率を下げようという魂胆がミエミエ、自民党、選挙がそれほど怖かったのか。もはやこの時点で精神的敗北、これが相撲なら気合負け、取り組みの前にすでに勝負はついていたようなもの。

ふたを開ければ民主党の圧勝、勝って僅差、案外負けるんじゃないかと思っていたから、民主党の勝利は意外な結果。国民の審判が下ったと盛んに言われているが、しかしこれ、小泉前首相に80%という、異常ほどの主体性なき支持率を示した国民だもの、またしても気まぐれ、風に流されただけなのではないかと、信用ならない。揺らぐことのない明確な判断材料をもって、自民党にNOを突きつけたのか。

それにしても安倍首相、故岸首相の怨霊でも乗り移っているのかと思えるほど、その政治的手法が酷似。ここにきての数々の強行採決、もとはと言えば岸のオハコだった。1956年には教育委員会法案の強行採決、1959年にはベトナム賠償協定の強行採決、そして1960年5月19日には、国会の会期延長と新安保(安保改訂)承認の強行採決、そのいずれにも警官隊を導入、暴力的な鎮圧行動を取りつつ、隙を縫っての強行採決だった。

安倍首相、こうした強行採決を行った結果、岸の支持率が戦後最低の12パーセントにまで落ち込んだことを知らないはずはあるまい。「あの流儀でやれば徴兵制度の復活だろうが、或いはまた戦争さえも強行採決されるのだ、と考えれば慄然とする」と語ったという野上彌生子の危機感は、安倍首相にもそっくりあてはまる。

江藤淳の「もしここでわれわれ(国民)が勝てば、日本人ははじめて自分の手で自分の運命を選びとることができるのである」という記述、今回の選挙がまさにそれ。自民党の長期腐敗政治を放置、放任してきた国民が、ようやくその愚に気づき、自ら変化を求めたということ。戦後レジームへの改革を安倍首相の手に委ねたところで、所詮戦前レジームへの回帰。ならば国民の手で、戦後レジームなるものを再構築と、そこまで思ったかどうかはわからないが、それが理想。

しかしまあ、国民の投票行動は文字通り「現金」なもの。改憲を声高に叫び続け、その前哨戦としての国民投票法案強行採決。これ、実は大変な暴挙だと思うが、それについてはさほどの危機意識はなかったのか、自民党吊るし上げにまでは至らなかった。

自分の懐に直結する年金、お金のことになって、ようやく自民党政治への批判が展開されたのだとしたら、まさに金の切れ目が縁の切れ目、芸者とダンナの世界。まあ政治もミズモノ、ご贔屓筋のおひねり(献金)で成り立っていると考えれば、それもありか。

ところで今回の選挙の争点であったはずの改憲問題はいずこやら、その行方が大いに気になるところ。民主党が野党第一党になったところで、ネオコン一派が蠢いているかぎり、油断ならない政党、そう思っていて間違いあるまい。権力監視の役割を担うはずのジャーナリズムはもはや信用ならず、だとすれば国民が監視するしかテはない。

つくづく思ったのが、猫にも選挙権を与えてくれればいいのに、ということ。我が家の猫たちの8票も「美しい国、ニャッポン」のためにぜひぜひ活かして欲しいところ。惜しむらくは文字が書けないこと、無効票だらけ。

(参考文献:『<民主>と<愛国> ─戦後日本のナショナリズムと公共性─』小熊英二著,2005年,新曜社)

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写真:(上)みなさーん、投票には行きましたか?(左)寝てましたア・・・。


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逃げられちゃった!

2007年09月12日(水)

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千載一遇のチャンス、一匹でいることなんて滅多にない田吾作母さんが、珍しく一人でウロウロ。これは捕まえられるかもしれないと、猫おばさんの直感、物置からケージを運び出し、扉に仕掛けを施して中にごはんを置き、物陰から見張っていた。

母さん、しばらくじっと様子を窺ったまま、なかなか入ろうとしなかったが、空腹には勝てなかったらしく、ソロソロと用心深く中に入ってゆく。しっぽの先まで入った瞬間、それっ!と入り口の扉をガチャン。

捕獲大成功と思いきや…ケージを置いた場所がうっかりレンガの上、ぐらぐらとしていたから扉がしっかりしまらない。猛烈な勢いで暴れまくり、体当りされ、その勢いで扉が開き、まんまと逃げられてしまった。一生の不覚。

あんな怖い思いをしたのだもの、ケージには二度と近寄らないかもしれない。となると、今後の成功率は絶望的。獣医さんには予め、捕まえたら連れていきますと連絡をしてあって、その時に「捕獲器をお貸ししましょうか」と言われたのを、自信たっぷりに「いえ大丈夫です」と。今度ばかりは借りてこようか。

逃がしちゃったとクヨクヨ、全身の力も抜けんばかりにがっかりしていると、今日は、よほど動物が逃げる日らしく、安倍首相退陣のニュース。参院選の負け犬、ついに総理大臣の椅子を蹴飛ばして逃げ出そうというわけか。

国会動物園からは、ついこの間も防衛省の渡り鳥が逃げたばかり。ノラ猫さんが逃げるのは無理からぬことだけれど、国政をあずかるこの人たちの敵前逃亡って、どう考えても無責任じゃない?

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写真:(上)敵は頭上。逃げるに逃げられずミイちゃんは固まったまま。(左)動物愛護協会から教わった仕掛けをしたケージ。仕掛けがわからないよう、写真の範囲は小さくしてあります。


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たかが猫、されど猫

2007年11月18日(日)

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今朝の朝日新聞に「異文化はじく日本 変えて」と題する記事があった。日本人と結婚した米国人女性の長女が、在住する群馬県の小学校でいじめにあったという話し。この女性、ミックメーヒル・カイランさんは、こうした体験を「負」のままに終わらせることなく、多言語学校の運営という活動へ精力的に転化させていったのだからすごい。

そのカイランさんが訴えるのは「多文化共生」の思想。違いを言い募って衝突するのではなく、違いを認め合える人間を育てなければならないということ。日本の学校では、決められた細かいルールを少しでも犯せばたちまちいじめの対象になるが、それは異邦人をはじき出す日本の文化と繋がっているのではないかと。

隣国の人々を侮蔑的な呼称で差別化していた日本など、遠い昔の話のようだが、グローバリゼーションだのなんだのと、そんな言葉が頻繁に語られるようになった昨今にあっても、なお異邦人を受け入れる成熟した社会には至っていないということか。

日本人の異文化、異質なものへのアレルギー、排除の思想。カイランさん言うところの、異邦人をはじきだす日本の文化の根源は、いったいどこにあるのだろう。ちょっとお堅い話しになるけれど、考えてみたいと思う。

地域社会における強固な社会結合の心理的因子は、日本が「国家」としての組織を有していなかった徳川時代の社会的集成の要素で、これが後々の日本民族の片鱗となっている。

村単位で租税・夫役が割当てられていたため、政治上の要求あるいは納税の締め付けに対し、村全体が一つにまとまり、団結していかなければならなかった。ここでは厳しい連帯が求められ、必然、村は強固な地域共同体(現在なら「自治会」といったところ)を構成することによって、離反者を出さないシステムを作り出す必要があった。

明治時代になっても、村落および村落を成立させていた地縁もしくは血縁による共同体は、住民に対し、共通のものを与えることによって可能となる共同性を軸として存在していたため、共同体に組した住民は簡単にその連帯を解くことなどできない。

そこでは個人の行動に対し、論理をとおして「ことあげ」することは、「牧歌的な平和の破壊を意味する」としてタブー視され、その結果、個の責任においての行動や意識が排除・抑圧されるという、日本固有の自治体が創出されていった。「個人」が集積した「集団」ではなく、あくまでも「集団」の中に「個人」が析出されるという、家父長制度の延長の中での組織だ。

太平洋戦争期には官製の御用機関として、町内会・自治会が大政翼賛の強力な後ろ盾となり、戦争への協力体制をより強固なものとしたが、それは、「個」を喪失した集団が作り上げた、偏狭なナショナリズムのなせるワザでもあった。組織の中から異質なものを排除しようとする共同体の有機的なネットワークを、国家は実に巧みに利用したわけだ。

こうしたDNAを綿々と引きずるがゆえに、日本人は今なお、異質なものを認める社会を形成することができないでいるのか。もちろん、異質なものを認められないのは日本人だけではない。「人」という種は、異種に対して寛容になれない動物なのかも知れない。

なんだか大仰な物言い、猫の話しとは関係がないじゃないか・・・って?いえ、外猫、地域猫の問題は、異質なものをどう受け入れるかという「人の問題」でもあって、さらに言えば、猫問題にどう対処するかということは、否がおうにも組み込まれてしまっている社会、あるいは地域という組織の中にあって、いかに「個」を貫くかという問題とも繋がっている。

ちっぽけな猫の問題が、時として自治会という組織を通して「集団」を生み出し、猫の排除、さらには猫の保護に奔走する人までも排斥しようとする、歪んだ地域社会を作り出す可能性だってあるのだ。

日本の社会が異質なものを排除しようとした時、そこに考えも及ばないような残虐性を帯びる可能性があることは、歴史的に見ても否定できない。さらに厄介なことは、それが「集団」によってなされるということ、すなわち、あたかも大多数の民意であるかのように行われることだ。

地域社会とはいったい何なのか、異質なものを排除しようとする心理はいったいどこから生まれるのか。ここ数日の外猫騒動、そして今日の新聞を読んで改めて考えてみたものの、どうやら根は深そう。多様性が認められる社会の到来はいつになるのか。

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写真:(上)内容とは関係ありませんが・・・サビちゃんは子猫ストレスなのか、ここ数日お腹がユルくなっています。普段の倍も可愛がってあげているのに!(左)なにがあろうと3団子。


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リカちゃん教授のイヌネコ論

2008年02月10日(日)

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ああ損した。本の著者は香山リカ。もともとこの方の本の評判が芳しくないことは知っていたけれど、『イヌネコにしか心を開けない人たち』という本の題名についつい惹かれ、720円という大枚をはたいてしまった。常日頃、11匹もの猫を飼うなんて病的かもしれない、心理の奥底に、実は重大な病理が潜んでいるのかもしれないと思っていた弱味につけこまれてしまった。 

これほどに根拠のない、論点の定まらない、結論のない本を書いた人物の肩書きが大学教授。この方、研究者としての正道を歩まれたふうはなく、あの容姿と、リカちゃんという名前がマスコミ受けして、いつのまにか教授職まで得てしまった感じ。話題性で学生を惹きつけることが目的だったのか、大学も罪なことをするものだ。大学で学ぶ最大の目的は、論理的思考を育成することにあると思っているが、この教授から何を学ぶ?

この本の内容にイチャモンをつけようと思えばキリがないが、その中のいくつかを。まず「動物愛護活動をする人」の中の「多く」は、「人間より動物が大事」という考えにとりつかれていると書かれていて、思わず、へえーっと。その論拠として、オランダの極右党党首ピム・フォルタイン氏を暗殺した人物が、動物愛護、環境保護に熱心に取り組んでいる活動家だったという例をあげている。

リカ教授いわく、暗殺者に、「動物は救うべきだが、フォルタインは死ぬべき」という価値観があったのは、「確か」なんだそうだ。挙句、「このように動物愛護活動は人間への嫌悪や敵意と表裏一体となる危険性がある」という極論を導き出す。フォルタインの、当時のオランダでの複雑な政治的立ち位置を思えば、暗殺者がエコロジストであり、それゆえにフォルタインを暗殺したといわんばかりの結論には疑問を呈さざるをえない。分析があまりに大雑把すぎる。

すべての事象について調査を行い、その結果から丁寧に分析したことなんて、この本には何一つ書かれていないが、動物愛護団体にはトラブルが多いという話もそのひとつ。動物愛護活動をしている人たちには2種類あって、ひとつは精神的に余力があって活動している人たち、もうひとつは、人間社会で傷ついた心の穴を活動で満たそうとする人たちなのだそうだ。「心に余裕がないからこそ動物愛護の活動に」という後者の場合、心に穴の開いた人、傷ついた人が集まって保護活動を行っているから、団体の中で人間関係のトラブルが起きることは十分に予想できるのだという。

同じ日に買った、アンソニー・ストーの『天才はいかにうつをてなずけたか』(求龍堂)で、ストーはその前書きに、「満足な人生を送っている人は想像力を働かせることはなく、不満をもつ人こそよく想像力を働かせると言える。想像力を生む内面的な活力は満たされることのない願望であり、どんな単純な想像力であれ、それは現実に対する不満を実現すべき願望に置き換えたものである」というフロイトの言葉を紹介している。

フロイトの言葉をそっくりそのまま受け止めるなら、心に穴の開いた人、傷ついた人が集まってこそ の保護活動。不満を実現すべき願望に置き換えようとする人々の間で、譲れない、譲りたくないという理想がぶつかりあえば、齟齬が生じるのも不思議ではない。それよりなにより、人間関係のトラブルは心の余裕云々ではなく、むしろ組織としての理念の低さ、あるいはリーダーの統率力の欠如によるものとしたほうがよほど自然のように思うし、人が2人集まれば争いが起きる、というのも世の常。

傑作なのが、熱狂的なイヌ・ネコ好きの多くは子どもがゼロかひとり。子ども三人以上には、何よりもイヌ、ネコという人はほどんどいないという話。これも周囲を見渡せば…程度のことからの推測らしいが、少子化の一因には、イヌ、ネコの溺愛があるんじゃないかと。つまり、イヌ、ネコには「脱性愛化」を促進する力が強く、セックスレスを引き起こし、少子化に至るのだと言う。「脱性愛化」だなんて、精神科医の面目躍如たる分析だが、巷のおばさまの井戸端会議でも、下卑た笑いと共にこんな結論が出そう。

この方、精神科医という専門家の立場で活躍をされているのだろうが、往々にして、このレヴェルの人物が今の日本の「知識人」「文化人」として持ち上げられている。そんな人たちのコメントが嬉々としてテレビからたれ流され、そうだそうだと同調する国に未来なんてあるはずがない。太平洋戦争期の戦前、戦中にも同じような現象があり、それが戦争を肯定、激化させたのが論より証拠。って、ちと脱線。

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写真:(上)あけみは、イヌだろうがネコだろうが人間だろうがお構いなく心を開く。「自己愛的」なことこの上ない性格の持ち主だけれど。(下)ミミちゃんはヒトにしか心を開けないネコ。


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公約という名の口約束

2008年02月16日(土)

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大阪府民の選択の誤り、というだけで済ませられる問題ではあるまい。橋下徹氏、大阪府知事就任後の公約破棄(まあご本人は「原則」と言ったのだとか、「机上の空論だった」とか、わけのわからない大義名分をつけているが)には目を覆うばかりだ。そもそも橋下徹なる人物のことは一切知らず、「タレント候補」として大阪府知事に立候補したことで、やっとその名前と顔を知った程度。

つい最近になって、you tubeで件のNHKの「遅刻」騒動がupされていて、そこで橋下氏の動いている姿を初めて見たが、へえ、こんな「おにいちゃん」だったのか。食いつきそうな目つきをした人が嫌いだから、個人的にはまったく好きになれないけれど、まあ見た目はスマートだし、弁護士という仕事も世間的にはそれなりに魅力的。

この橋下氏なる御仁の言動を見るにつけ聞くにつけ、自分が大阪府民だったら、我が身を任せようなんてこれっぽっちも思わない。どこか石原都知事に共通する傲慢さが感じられるし、傲慢なだけならまだしも(でもないが)、両人ともその傲慢さに許しがたい弱者蔑視が漂う。

テレビがうまく作り出した偶像、そこにさらなる幻想を重ねての大阪府民の選択だったのか、それとも、本気でこの人なら大阪の未来が託せるとでも思ったのか。あの小泉前首相のカイカク劇場のからくりとその顛末をすでに知っていながら、それでも同じ手口に騙されるというあたり、大阪人は余程ヒトがいいのか。

大阪ばかりじゃない、そもそも日本人、すべてを水に流すのが得意なのかもしれない。というか、まあええやんか精神の蔓延。それが証拠に、東京都だって石原都知事の三選を許しているし、宮崎県は没落寸前のお笑いタレントの、政治家へのリクルートに温かく手を差し伸べた。岩国市も「補助金、やんねえ」という政府の汚い手口に、市民は良識を封じてしまった。

橋下氏の場合、大阪府知事就任以前の発言の数々を見れば、この人がどういう思想の持ち主なのかよくわかろうというもの。公約なんて守るはずがないことは目に見えていた。何を言ったか、何を撤回したのかはWikipediaあたりにも書かれているのであえて書かないが、公約の重みを自覚していない。

嘆かわしいのは、それをマスコミが叩かないこと。小泉前首相も「国債30兆円枠を守る」という公約を破り、「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」と、平然とした顔で強弁していたっけ。それでもなお小泉氏を持ち上げていたのは取りもなおさずマスコミ、それに踊らされていたのは国民だった。一国の首相でこの発言、それが許されるのだから、大阪府知事の公約破棄なんてチョロイもの。

大阪府知事の問題は大阪の問題、高見の見物だなんて言っているブログもあるが、そうではあるまい。じわりじわりと、日本全国にこうした知事が選ばれていくところに怖さがある。鳴り物入りの知事が、絶大な人気を誇りつつ日本列島を北上しているのだから、都道府県がお手てつないで強権国家の後ろ盾になる日もそう遠くはあるまい。騙されたと思った時にはすでに戦地、「おっかさーん!あの一票が命取り」。

選挙が、もはやどんな政策を実現しようとしているのか、その政治家の思想信条を問うことなく、人気投票に化してしまったこの現実。橋下氏に気をよくした自民党。次回の選挙では、大量のタレントを担ぎ出してくるという噂もある。民主主義というより、これはもう民痴主義。

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写真:(上)我が家の人気投票一位は父・・・。(下)サビちゃんだけは絶対に母。


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長寿がメデタクない国

2008年04月21日(月)

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悪評高き「後期高齢者医療制度」(「長寿医療制度」)。これが自民党の悪行の為せるワザとようやく気づき、政権交代が必要だとかなんとか、民衆の怒りも頂点に達し、こぞって福田政権を非難し始めた。でも、元を質せばこの制度の産みの親は2年前の小泉政権。数にモノ言わせてのゴリ押しで通った制度じゃなかったっけ?

小泉前首相っていうのは血も涙もない悪代官だったとつくづく思うが、でもまあそれなりに正直ではあった。それが証拠に「ワタシのカイカクは痛みを伴う」ってはっきり公言していて、それでもいいよね、賛成してくれるよねとずいぶん念を押していた。冗談じゃないと憤っていた人たちは、当時わずか20パーセントほど。

何度も何度も念を押されたのに、まさか自分が痛みを負う当人だなんて思ってもいなかったらしく、一番痛みを負わされる層が、こぞって小泉劇場に木戸銭を払い、幕の内弁当ならぬ日の丸弁当をつつきながらやんやの喝采、小泉政権を盛り上げていた。実際に斬られてみなくちゃ痛みを感じない国民を育てたなんて、小泉氏の提唱する「鈍感力」普及政策も見事に成功。

これだけ足蹴にされながら、時事通信社の4月の世論調査によれば、首相にふさわしい政治家は「自民党の小泉純一郎元首相」だという。21.2%で断然トップと聞いて空いた口はそのまんま。日本国民というのは、ほんとうに「塀の中の懲りない面々」。牢獄に入れられても入れられても、シャバに戻れば悪代官に一票を投じる。臭いメシがよほど好きらしい。

イラクの自衛隊派遣は(当然のことながら)違憲とされたが、これとて当事者は小泉氏。国会で非戦闘地域について質問されれば、「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域」という詭弁を弄し、党首討論でイラク国内の非戦闘地域について聞かれれば、「イラク国内の地名とかを把握しているわけではない。 どこが非戦闘地域かと聞かれても分かるわけがない」と発言。一国の首相のこれほどに無責任な発言を、小泉さんってわかりやすーいとかなんとか。日本の政治の吉本興業化はこの頃から。

色川大吉氏は『ある昭和史』(中央公論社)の中で1944年を振り返り、こう記す。「『私は』といえば、依然としてこの時代の巨大な国民的思考の枠組─共同幻想の錯誤から離れることができず、憤りながら、もがきながらも、愚衆の中の一人として、この『不義』の戦争の破局まで全力で尽くし続けることになる」と。色川氏の戦後の深い内省の言葉。

痛みを分かちあう「共同幻想の錯誤」よ再びか。冗談じゃない、痩せたライオンにとって食われるぐらいなら、うちの猫たちのためにミンチにされ、エサになってあげたほうがよほどまし。あら、後期高齢者医療制度について書こうと思ったのにブレた?いつのまにかブレないのが売りだった悪代官のことばかり・・・。

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写真:(上)今年14歳のチリリン。後期高齢猫まであと1年だけれどまだまだ若いつもり。(下)最近「悪代官化」しているムメモ。ボスだったフクの後を引き継ぎ、他の猫たちに采配を振るいはじめた。


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正義という名の横暴

2008年04月26日(土)

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「山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決公判が22日、広島高裁で開かれ、同裁判所は殺人と強姦致死などの罪に問われた当時18歳の元少年(27)に死刑を言い渡した。」(4月22日 AFP)

事件の凄惨さについては筆舌尽くし難く、被害に会われた母子の無念の気持ち、ご家族やご親族の心痛を思うと、胸が張り裂けそうになる。犯行におよんだ(元)少年に対しては、いかなる理由があろうと情状酌量の余地などあるものかと、心情的にはそう思う。罪の償いのために、最も重い罰を受けるべきだと。

けれど、この判決に言及しているブログのほとんどが(膨大なブログの中の、僅かなブログにしか過ぎないのだが)、死刑だ!そら見ろ、死刑だと、鬼の首を取ったような書き方をしていることに対しては、強い違和感を感じざるをえない。死刑判決の下った被告に対し、民衆がこぞって石礫を投げる光景は異様だ。

26枚の一般傍聴券に3886人が詰めかけたというが、傍聴券に群がった人々の目的は、ほんとうのところなんだったのだろう。法の専門家は除外するとして、傍聴を望む一般市民の興味は、事件当時18歳未満だった被告が、2審の無期懲役判決の差し戻しによって、27歳となった今、死刑求刑を受けるのかどうかという法的な興味からだったのか。

経緯に詳しくないが、某番組で橋下現大阪府知事が、光市母子殺人事件弁護団(橋下氏言うところのカルト弁護士たち)に対し懲戒請求を出そうと呼びかけ、多くの一般市民がそれに応じたそうだが、その延長線上のことだったのか。

死刑制度については、未だ多くの問題が山積している。そもそも死刑とは何なのか、国民の生命に手をかけることが許される「国家」のシステムとは一体どういうものなのか、あるいは「報復」という極めて抽象的な概念をどう解釈するのか。

高橋哲哉氏は『戦後責任論』(講談社学術文庫)の中で、ハンナ・アーレントがアイヒマンの死刑を支持したことについて、「アーレントが『ユダヤ人を殺したナチは生きる権利をもたない』といって死刑を支持するとき、そこに『世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利があるかのように人を殺す』という、アーレントが拒否したはずの全体主義の論理がある形で反復されているように感じる」と記す。アーレントの思考をもってしても、死刑は矛盾の中に押しやられてしまうということか。

死刑を当然のこととする民衆の、けれど誰一人として囚人の首に縄をかけるわけでもなく、自ら処刑台のボタンを押すでもなく、処刑された囚人の遺体に接するでもない。実にあっけらかんとした、他者意識の中で死刑は肯定される。死刑がこれほど安易に語られる理由はそこにあるのか。

さらに気にかかるのは、「正義」を前提とした死刑肯定の意見に対しては、いかなる反論も許されそうにないこと。そんな雰囲気が蔓延する時代は極めて危険だ。毎日新聞(4月24日・夕刊)に、編集委員の金子秀敏氏による「人民による言論封殺」と題するコラムが掲載されていた。チベット暴動に対し、中国政府のみならず、中国の一般市民の間でさまざまな言論封殺が始まっているという。「人民の人民による言論封殺」への警戒感を示す記事だった。

日本もまた、同様の兆候を見せはじめてはいまいか。KY(空気が読めない)な人を揶揄する人々は、すべてに同一性を求める。「正義」という印籠を見せつけられれば、すべての人々はその「正義」にひれ伏し、肯定しなければればならない。それに異を唱えることを許さない空気が国中に蔓延した時、どんなことが起こるのか、起こったのか、日本人はすでに経験したはずではないか。

光市母子殺人事件も心情とは別に、あらゆる角度から冷静に、犯罪を、そして判決を読み解く必要があるのではないか。決して煽るなかれ、そして煽られるなかれ…。

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写真:(上)猫草に群がっても、この子たちの考えていることはてんでんばらばら。(下)かつおの生利をくれたって、あたしはあたしヨ。


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猫も杓子も首相候補

2008年05月25日(日)

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支持率20パーセント台を割りそうなほど(もう割った?)、人気が低迷している福田首相。辞めるつもりなどないだろうと個人的には思っているけれど、巷間喧しく語られるようになったのが、誰が次の首相になるかということ。昨日の朝日新聞にも、次期首相と目される人物について触れている記事があった。

で、なになに、町村信孝に中川秀直に小池百合子だと~っ!日本人やめますか?と思わず自分に問いかけてしまいたくなる面子。他のメディアでは、この他に麻生太郎や与謝野馨の名前を散見するが、どうひっくり返してみても好みのオトコがいない…違う…首相の器たる人物がいない。

どうしてこの人たちが担ぎ出されるのか、まったくもって不可解だけれど、中川秀直を除けば(個人的見解)、衆人受けしそうな「雰囲気」を持っているからなのか。今の政治に必要なのは政策よりもルックス、そして嘘八百を口にできる山師の気質だっけ。

猪口才な選挙管理内閣を作って人気を盛り返し、政権交代を避けようと企んでいることなど、誰の目にも明らかだけれど、それにしてもこの人たちの口から、国をどうしたいのか、国民の生活をどう保障してゆくのかという政策ビジョンを、一度たりともまともに聞いたことなどありはしない。

長か半かと博打場で、いかさまサイコロ転がして国政を動かしてきた政権が大勝する国だもの、まっとうな政策論議なんざウザくて仕方がない。それよりアキバに行って、オタクのふりをしたほうがよほど票につながる。

そういえば1986年の衆参同時選挙選で、「大型間接税は導入いたしません。この顔が嘘をつく顔に見えますか」と大見得を切り、圧倒的多数を得たことをいいことに消費税導入のレールを敷いた嘘つき政治家がいたけれど、あのお方も自民党だったっけ。

中川秀直は出版した本の中で自ら女性問題を暴露し、禊を済ませての総裁選出馬だと言わんばかりの新聞の論調だったけれど、「何考えてんのよ」とその字面に悪態。

中川の女性問題は単なるオトコとオンナの問題ではなかったはず。中川に支払われたとされる機密費2億2千万円はどこに行ったのか。素人さんには怖くて立ち入れないけれど、これだけのスキャンダルでも政治生命が絶たれないという悠長なお国柄…どころか首相候補。

町村信孝は後期高齢者医療制度の抜本的な見直し不要論者、75歳まで生きるつもりはないらしい。あとは、寿司を背負った渡り鳥と漫画太郎と君死にたもうことなかれ主義の与謝野かァ…日本、しっかりせいや!

不毛の首相候補記事にウンザリしていたら、ここにきて一院制の導入などという突飛な話。森、小泉、安倍元首相が顧問といえばその目論みはミエミエで、自民党の一党独裁延命のための「暴案」。国会審議の迅速化のためだと言うが、今だって民意を無視し、数にもの言わせての強行採決、十分に迅速化しているじゃない。

政権が変わったところで、日本が真に変われるのかどうかはまったくもってわからないし、期待もそこそこ。けれど今のままでいいはずはない。国会議事堂内部は、1955年以来実に50年以上にわたって(ほぼ)政権を握り続けてきた自民党の腐臭が蔓延し、縄張り争いのマーキング跡で染みだらけの赤いじゅうたんからは、強烈なアンモニア臭。

「有権者、一人一瓶消臭剤」が総選挙の際の合言葉。

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写真:(上)舌を出したくなるよな政治だわねえ、ほんと。(下)烏合の衆ならぬ、猫合の衆。民主主義の怖さは有無を言わせぬ多勢の勝利。・・・それにしてもいっぱいいるなあ、猫。


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虎視眈々

2008年06月08日(日)

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(とんでも首相候補の)中川秀直氏が民主党の前原誠司副代表らとともに、たばこ税率の大幅引き上げを目指す超党派議連を発足させるそうだ。超党派というけれど、前原氏のどこが民主党なのか普段から理解不能、誰がどうみたって隠れ自民党、だから「超党」とは名ばかりだと思うのだけれど、まあその問題は脇に置いておくとして。

そもそもの発端は、日本船舶振興会(通称・日本財団)会長の笹川陽平氏による産経新聞『正論』(3月4日付)での提案。国家の財政赤字が800兆円(「日本の借金時計」によれば、今日の段階で赤字額は約897兆円)まで膨らんでいることの打開策として、消費税の増税よりタバコ一箱を1000円にしてはどうかという話。

消費税を引き上げればそれによって見込まれる税収増は約2兆4000億円。一方、たばこを欧米並みの1箱1000円に値上げすればその税収増は9兆5000億円。消費税よりも俄然効率がいいし、これを契機に禁煙者も増えるから健康にもいい。得た財源を社会保障関連の財源として活用すればいいという論の展開。

笹川氏は超党派の国会議員で作る「禁煙推進議員連盟」(綿貫民輔会長)のメンバーに文書で協力を依頼したそうだ。「国会が主導して国民によく見える議論を進めれば、国会に対する信頼回復にもつながると確信する」と笹川氏は結ぶ(日本財団会長 笹川陽平ブログ)。

はて…あたかも国民の意見を代表したかのような口ぶりだが、ロックフェラー財団でもあるまいに、この御仁に政治を動かすほどの発言力などあったかしら?いつ国民がそんな要望を託したのか?もとより公益法人の会長にそんな権限などあろうはずはなく、むしろあってはならない話だと思うのだけれど。

我が家はタバコが大の苦手だが、今回のタバコの値上げについてはまったく賛同できない。なによりも疑問視しているのは、一財団の会長の発言で、なぜ政治家がこうも簡単に動くのかということ。きわめて重大な税の問題が、民意もへったくれもありゃァしない、いっちょやったりましょう程度の相槌でコトが運んでいるという苛立たしさ。

中川氏がタバコ税に関して積極的に動く背景に、日本船舶振興会との絡みがあることは明白。健康のためだと言うのなら、へビースモーカー氏が動くのは不自然だし、消費税問題の解決だと言うにしては、禁煙者が増加することで激減するだろうタバコの売り上げ、それでもなお消費税に見合う税収が見込めるのかどうかといった試算も厳密には示されていないというズサンさ。

想像の範囲を超えないことを言うのは論理的ではないし、批判としても適切ではないが、中川氏の背景にどんな利権が絡んでいるのかしら、そして誰が高笑いするのかしらと、この話題を目にするたびに、まるで推理小説を読んでいるような心境になってくる。タバコの煙の中に隠れて見えない・・・という歌があったけれど、タバコを使って見せたくないものをケムに巻くという手もあったか。

「タバコを吸う人がいなくなるから賛成」などというブログやコメントを目にするが、コトの本質はもっと深いところにあるはず。今や(いや、昔から)政治家のやることの裏には必ず何かがあると疑ってかかったほうがいい。政治家の「嘘」を信じて最後に苦しむのは庶民だということを、常に肝に銘じておいたほうがいい。

財務省が消費税のアップを虎視眈々と狙っていると笹川氏は語るが、消費税upを牽制するなどという中川氏の弁も単なる甘言、信じるのは蟻ぐらいなもの。タバコの税収が頭打ちになった時、ゾウに踏み潰されるのがオチ。

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写真:(上)おんどりゃ~っ!(特に意味はありません)(左):増税?見ないふりの狸寝入り。


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ネコニナリタイ

2008年07月22日(火)

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今日22日は「大暑」。あちらこちらの地域で最高気温が35度以上の真夏日になった。普段は賑やかな我が家の猫たちも無言のまま、あちこちの床にゴロゴロと転がっている。

許されるものなら、私も猫と一緒に一日中転がっていたいのだけれど、不幸にも人間に生まれてしまったから、こんな日も働かなくちゃならない。

福田首相は夏休みを終えて今日から公務再開。で、注目を集めているのが内閣改造。昼のニュースによれば、伊吹幹事長が「福田首相の支持率アップのためにも内閣改造が必要だ」と語ったとかなんとか。人事権の行使より解散権の行使だろうという突っ込みを入れたくなったが、まあそれはさておき。

ちょっと伊吹幹事長さま、あなた、16日の京都市での講演で、消費税率引き上げについて触れ、消費税を上げてから選挙をすれば大変なことになるから、総選挙前に実施すべきではない。選挙に勝とうと思うなら、有権者に一種の『目くらまし』をしなければしょうがない、と言ったそうじゃありませんか。

「いい意味での目くらましとパフォーマンスを首相にお願いしながら難局を切り抜けていきたい」という伊吹幹事長の提案する内閣改造、称して「目くらまし内閣」かア。目玉はサラダオイルで作った偽イクラののった寿司とか?夏を前にしてすでにしなびた青菜状態だった国政、秋には腐ってドロドロね…。

アッヂ~!

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水分を真剣に補給して脱水症状を防ぎましょう。


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国民的人気って?

2008年08月03日(日)

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『めくらまし内閣』あっ…いや『安心実現内閣』の船出。目玉は、時期総理候補と言われている麻生太郎氏を幹事長に抜擢したことらしいが、麻生さんを評して、どの新聞も「国民的人気」という言葉を接頭語に用いていて、その暑っ苦しいこと。

「国民的」っていったい何のことかと、ただでさえ回らない頭、この暑さでほとんど回路がぶっちぎれているこの頭で考えてみたが、回答は出ず。国民って・・・一応私も国民だもんなあ。そんな矢先、政治ブログ『とむ丸の夢』さんでも同じようなことが話題になっていた。

「解せないのが、「国民的人気」という言葉が麻生太郎氏の枕詞になっていること。アベ首相登場の時にも盛んにそう喧伝されて首をひねったものなのですが、考えてみれば国民の大多数がこぞって一政党人にすぎない人物をもろ手を挙げて支持するということ自体、おかしい、というより気味が悪い。それを考えると、「国民的人気」という言葉は質の悪い表現だな、と思ってしまう。」(2008.08.02『とむ丸の夢』から引用)

ほんとうにそのとおり。コイズミ元首相の時も、権力に対峙すべきジャーナリズムが、こぞってコイズミ氏を「国民的人気」があるかのように言い立て、結果として国民の判断を誤らせた。最近ではちょっと小粒だが橋下大阪府知事。

彼らのやり口は、揃いも揃って「敵」を作り、その敵があたかも国民の敵そのものであるかのように喧伝して、自らの政策の正当性を強調しようとするやり方。しかし彼らが名指し糾弾する「敵」は、本質的な政策の変革からはおよそ遠く、その影で、さまざまな利権・腐敗(これこそが強力な敵のはずなのに)が温存され続けているというのが真相。

朝日新聞はここ数日橋下氏の特集を組んでいたが、およそ好意的。私の登録している某メーリングリストでは「文化・福祉予算への大鉈で、最近、何かとマスコミを騒がせている大阪の「緊縮財政」。いったい、このままで良いのか?大阪の文化を何とかしたいという思いを持っているメンバーが集まります。是非、応援に駆けつけてください。」という、文化を切り捨てる橋下氏、それを是とする府民への危機感を持った人たちが、切実な思いを発信し、行動を起こそうと呼びかけているというのに。

いいかげんにせんかい、マスコミ!(と思わず言いたくなるよなあ・・・)。「国民的人気」という言葉は、ヒトラーのような極悪非道の悪党を生み出す装置のひとつ。それがどういう結果をもたらすかについては、いまさら言うまでもあるまい。「国民こぞって」、「国民が一丸となって」…この言葉がどれほど危険なものか、もう一度歴史を紐解いてみてはどうか。

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写真:(上)竹やぶ三兄弟は、いつも「一丸」となって破壊行動をする・・・。(下)サビちゃんはこの暑さでも平然と過ごすクールな猫。


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「失言」の根っこにあるもの

2008年08月05日(火)

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「国民的人気」を誇る麻生太郎氏が幹事長就任早々の失言、民主党をナチスに例えて批判した。軽率な発言はこれが初めてというわけではないから、今更という感がしなくもないが、看過できない発言。江田五月参院議長と国会内で会い、就任あいさつをした際、「かつてドイツはナチスに1回(政権を)やらせようとなって、ああいうことになった」と述べたのだとか。

後になって、民主党とナチスを重ね合わせる意図はなかったと強調しているが、誰がどう聞いたって、麻生氏の頭の中ではナチス=民主党。もともと失言癖のあるこの方のことだから、総理の座を狙って幹事長の椅子に座ったところで、自ら墓穴を掘って失墜するに違いないと思っていたが、まんざらハズレでもなさそう。

麻生氏の失言の中でももっとも許しがたく、この人物がいかに次期総理としてふさわしくないかを如実に示すもののひとつが野中広務氏批判。野中氏について、麻生氏はある会合のなかで「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と語っていて、これなんぞ言語道断。(『野中広務 差別と権力』魚住 昭著 )

麻生氏の口から、なぜこうも許しがたい差別発言が次から次に飛び出すのだろうかと頭をひねり、ふと思い浮かんだのが彼の「出自」。この方、「麻生セメント」の御曹司でしたっけね。戦前の炭鉱と言えば…そう思って、ちょこっとWikiってみたらやっぱり。

太郎氏の父親である麻生太賀吉の経営していた「麻生炭鉱」は、戦前、劣悪な労働環境の元で朝鮮人炭鉱労働者・被差別部落民を使っている。アコギにもこの麻生炭鉱、他の炭鉱の2分の1ほどの給与で労働者を雇用していたそうだが、さらに朝鮮人労働者に対しては休日を与えず、給与の2割をカットしていたという。(「強制連行」の戦後処理は未解決のまま今日に至っているが、麻生氏も当事者ってことね?)

こうした環境の中で育っているのだもの、朝鮮人や被差別部落民に対し、強い差別意識があって当然といえば当然のことかもしれない。が、弱き者たちから不当に搾取して得た巨万の富の中で、それを当然のこととして受け入れてしまうのかどうかは、あくまでも本人の意識の問題であり、人間性の問題。この環境なればこそ、差別に対し強い憎悪を持つことだって十分にありうるのだから。

こんな人物に日本を託していいのか?彼が総理になったとして、おそらく一番に切り捨てられてしまうに違いない「層」(層という言葉が嫌いなので、あくまでもカッコつき)がこぞって彼を応援しているのだとしたら、まさにマンガ。マンガ宰相によるマンガ国家の成立…じゃなくて崩壊。

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写真:(上)竹やぶでノラちゃんの子として生まれましたが、ナニカ?(左)たぶんブリーダーが「血統書つき」で売るはずでしたが、ナニカ?


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これが福祉政策?

2008年08月09日(土)

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本日、特別養護老人ホームの評議員会に出席。母がデイサービスとショートステイでお世話になっていた特別養護老人ホームから「評議員」なるものの依頼を受けて7年。その間、国の社会福祉政策は弱者軽視の傾向を強めていったが、今日の報告を聞いて…アララ。それなりの経営をしてきた施設が遂に経営悪化の兆しを見せ始めた。

毎年2,200億円にもおよぶ社会保障費削減を主唱するこの国、これから先、本気で高齢者や弱者を切り捨ててゆくつもりだから、経営困難の窮状を国に訴えたところで手を差し伸べてくれるはずなどなく、新自由主義万歳の「自助努力」、なんとかして乗り切る手立てを考えなければならない。(年間約5兆円にもおよぶ日本の防衛費を思えば、2200億円ぐらいどうにかなるだろうに。削るところが違うよなあ…)

そこでこの施設、退職した福祉職員の補充をしないという方針を打ち立てた。つまり人件費の削減。それでも当初は職員の補充をするつもりでいたらしいが、入職希望者もなく、離職者の後釜がなかなか見つからない。その間、今の人数でもなんとか仕事はまわりそうだということになって、求人を取りやめてしまったという。人数が減ればそれだけ労働条件は悪化する。賢い選択とは思えないが、「背に腹…」というところか。

施設の介護職員の離職率は高く、評議員会は数ヶ月ごとに開かれるが、そのたびに数名の離職者の報告を受ける。ほとんどが3年未満、短ければ1年にも満たない期間で人が入れ替わってしまう。この施設の場合、理念は高いし経営陣の姿勢にも問題があるとは思えず、考えられるのは、重労働に比して支払われる対価が極めて少ないというところか。

東京都・福祉保健局の平成19年度特別養護老人ホーム等経営実態調査結果によれば、常勤の介護職員の平均給与額は特養で年間387.7万円、老健だと年間341.4万円というから、理想とやりがいに燃えて福祉職についたものの、生活が成り立たずやむなく転職というケースが多いのだろう。結果、施設は慢性的な人手不足に悩まされることになる。

そこで国は考えた。インドネシア人の看護師と介護福祉士を2年間で1000人、日本が受け入れるという日・インドネシア経済連携協定(EPA)に調印したのだ。この協定、2008年5月に国会で承認され、8月7日には早々に第一陣のインドネシア人205人が来日している。

医療・福祉分野で本格的に外国人労働者を受け入れるのは初めてで、人材の安定的確保を図る狙いだというが、なぜ日本の介護従事者の労働条件改善を先送りにして海外の人材をアテにするのか、摩訶不思議、首を傾げるばかりだ。日比経済連携協定に基づくフィリピン人看護師・介護福祉士候補者の受入れも検討されているとか。

さらなる摩訶不思議は、インドネシアおよびフィリピンと日本の仲介役になっている国際厚生事業団(JICWELS)という厚生省認可の社団法人。一体どんな組織なのか。「フィリピン人の受入れを適正に実施する観点から、我が国においては国際厚生事業団(JICWELS)が唯一のあっせん機関として位置づけられることになっており、これ以外の職業紹介事業者や労働者派遣事業者にフィリピン人のあっせんを依頼することはできません。」と厚生労働省のHPに明記されているが、厚生労働省の天下り先?

さらにさらに、自民党がこの6月、今後50年間で1000万人の移民を受け入れるという提言をしていたことともダブって仕方がない。中川秀直氏が会長となって「移民庁」を設置するというあの話。関連性は皆無なのだろうか。「移民」受け入れのための段階的措置なのではあるまいか。

首を傾げるばかりの出来事に、首は180度以上回転してしまってもはや収拾がつかない。国会議事堂という魑魅魍魎の「オバケ屋敷」で雇ってもらおうかしら?

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写真:(上)ちりりんは今年14歳。介護とは無縁なまま元気に過ごして欲しい。(下)バラが咲きました。黒赤色のバラ の花言葉は「化けて出ますよ」とか^^;


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金メダルが欲しいよ~~っ

2008年08月27日(水)

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オリンピックが終わってやっと一息。これで仕事に打ち込める、なんていう理由からじゃなくて、これで「スポーツ新聞」を読まなくても済むという安堵感。

「なんとかスポーツ」なんていう新聞をとっているわけでもないのに、1面、2面、3面、4面…開けども開けども、どこそこの国の誰とかが金メダルだ銀メダルだという話題ばかり。今まで紙面を埋め尽くしていたさまざまな話題はいったいどこに行ってしまったのか。

夫からは、紙面をめくるスピードがやたらと速いね、なんて冷やかされていたが、オリンピックという「代物」(だと思うのだけれど)を国民がこぞって観戦し、ニッポン、ニッポンと絶叫し、金メダルに欣喜雀躍って…なんか不気味じゃない?

そんなことを思っていたところに、「福田団長が強化費3倍増を訴え」(nikkansports.com配信「日刊スポーツ・2008年8月26日紙面」)なんていう記事。

北京五輪日本代表選手団の福田富昭選手団団長が、今以上のメダルを獲得するために、現在の、4年で約80億円の国からの強化費補助を、約3倍の240億円にして欲しいと訴えたというもの。

「どの国も国策として五輪に挑んでいる。現在の強化費では、勝て勝てと言われてもこれ以上のメダル獲得は難しい」し、2016年に東京五輪が開催されれば、「日本が活躍しないわけにはいかない」、だからその前のロンドン五輪では「せめて世界でも5番以内のメダル数確保が必要」、そのためには「今の倍近くは(強化費補助が)欲しい」という論の展開。「国策」・・・ね。

記事の締めくくりとして記者は「これまで女子ホッケーなど『貧乏』が話題になることが多かったが、それでは世界と戦えないことも事実だ」と書くが、まあスポーツ新聞だから、スポーツの勝敗にこだわり、スポーツ振興にカタを持つのは当然といえば当然だけれど、世界と戦うことがオリンピックの目的だった?

オリンピック開催の起源について、またしてもwiki(注:Wikipediaを信頼しているわけではありません、念のため)。「アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指した」…そうそう、そのはず。

それが今では、国の威信をかけての金メダル獲得合戦になってしまい、挙句に「国策」なんていう言葉まで飛び出すようになってしまった。それはちょっと違うでしょう?

借金地獄日本、それでも福田団長の訴えを受け、強化費補助として240億円ものお金をポンと出しちゃう気かしら?出さなくちゃいけないところには、これでもかというほどケチっているというのにネ。

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写真:(上)我が家のスポーツ選手のホープは小牧。このスリムな体がその敏捷性を物語っているかも。(下)ムメちゃんは運動が大の苦手。猫なのに、小さい頃にケージにでも押し込められていたのか、ジャンプがほとんどできない。まあ雰囲気も「犬」だし性格も「犬」。飛べなくても問題なし。


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ニッポンチンボツ

2008年09月02日(火)

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夏バテなのか、先週末は頭も体も動かず、ずっと横になっていた。本を読む気力もなく、ひがなCSテレビをグダグダと観る。

こんな体調の時に観るほど軽い内容のものではなかったけれど、ヒストリーチャンネルで観たのは、記録映画『明治大正昭和三代六十年に亘る戦争 実写 日本五大戦争』。日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、支那事変、第二次世界大戦の記録映画を編集したもの。

60年という歳月を、しかも極めて重大なテーマを一時間ちょっとに編集してしまっているから、内容が表層的なのは仕方がないとして、事実の核心への突っ込みが足りず曖昧な印象、ナレーションは型どおり。まあ、近代史をなぞるだけのつもりで観れば興味深い。

続いて日本映画専門チャンネルの『日本沈没(2006年)』。リメイク版ということだったが、そもそも73年に製作されたものを観ていなし、実は原作も読んでいないから、比較のしようがないのだけれど、驚いたのは特写技術。ゴジラだのガメラだので育った世代、それ以降、この手の映画を観ていなかったから、東京が沈み京都が沈む、行く手を阻むがけ崩れ・・・と、そんな光景に感動しまくり。

ただ気になったのは、自衛隊の宣伝映画だったのかと錯覚してしまいそうな場面の数々。自衛隊って、自国防衛のための「軍隊」だと認識しているのだけれど、この映画を観るかぎりでは、災害時に特化した国営救助隊としか思えない。

自衛隊は、アメリカに次いで世界第2位の保有数という、一機約3,000万ドルもするというF-15戦闘機を203機も持っているらしいけれど、空戦能力抜群のこの戦闘機が、天変地異の大災害時には救援機に変身するのかもしれないなあと薄い期待。「自衛隊、日本にあってよかったね」という適当な標語が口をつく。

それにしても同じ日に観た映画が、戦争の記録映画と『日本沈没』。かたやバリバリのドキュメンタリー、かたやバリバリのフィクションだが、破壊され尽くした日本の姿は見事にダブっていた。日本が消滅するとしたら、戦災によるのかはたまた天災によるのか。

そんなことを思っていたら、福田首相辞任の報。あらら、2代に渡る首相の職場放棄。後継と目されているのが麻生氏、小池(百)氏、谷垣氏、野田(聖)氏だというのだから、日本の政治は、というより自民党は「認知症」も末期の様相、今ドコにいるのか、アタシが誰なのか、もはや見当がつかない状態にあるらしい。

なんのことはない、「政災」で日本消滅というストーリーだったのか。

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写真:(上)こんな平和な光景の中でふと、災害時にこの子たちをどうやって救出しようかと考えることがある。(下)そんなに大きなお口で訴えなくても、サビちゃんのことはママがヒシと抱いて避難しますよ!


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ジャーナリズム崩壊

2008年09月10日(水)

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毎年恒例となった国会劇場での公演、『首相の逃亡』第一幕が終わり、いよいよ第二幕が開幕した。大根役者が勢ぞろいの総裁戦を観ていると、日本人でいることがいい加減イヤになってくる。そう思っていたら、『天木直人のブログ』に「メディア批判を批判する」と題して、天木氏が以下のような論評を書かれていた。

『9月10日の読売新聞に学習院女子大学教授の石澤靖治氏(メディア関係論)が「遅かった『ひとごと』批判」という見出しで、メディア批判を書いている。その要旨はこうだ。

・・・9月1日の福田首相辞任会見の最後に、ある記者が総理の会見は人事にように聞こえるという質問をし、これに怒った福田首相が、あなたと違って私は自分を客観的に見る事ができる、と捨てゼリフを吐いた。毎日記者会見をしておきながら、なぜいままでこのような鋭い質問が記者の間から出てこなかったのか。それは暗黙の了解が記者と総理の間にあるからだ。この実態を、フリージャーナリストの上杉隆氏が「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎)で明らかにしている。つまりなれあいの会見をわれわれは毎日見せられてきたのだ。総理会見の場は、首相の一方的なメッセージ発信の機会にはなっていても、ジャーナリズムが首相をチェックし、批判する場にはなっていない。「ひとごと」批判は、福田首相が退陣するときになされるべきではなく、それより前に行なわれているべきであった・・・

その事に異論はない。しかしこの八百長質問会見を考え出し、もっとも利用したの