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カテゴリー:生き物いろいろ

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カエルの歌が聞こえてこない

2007年07月15日(日)

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台風4号が今日午後にはこの地域を直撃すると言われていて、天気図を見ると「目」の中に入りそうな気配。昨日、小康状態のうちにと、外猫の小屋をロープで厳重にしばり、それでも、風速60メートルというから、なにもかも、猫ごと吹き飛んでしまうんじゃないかと心配だったが、逸れたらしく、今はスズメも鳴き始めたし、ヒグラシも。

雨の日の外猫たち、どこでどう過ごしているのかと、小屋にいない時には心配になるが、雨がやんで庭に戻ってきても、ずぶ濡れになっている子などいなくて、それどころか、雨に打たれたふうもなく至極きれい。雨の入らない秘密の場所があって、そこで雨宿りをしているのか。

じめじめとした雨ばかりの天気が嫌なのは、外猫たちがかわいそうだから、という理由の他にもうひとつ、ここは田んぼの多い田舎。道にカエルの大軍団が現れるのが、これまたほんとうにイヤ。

小さい頃はカエルをしょっちゅう捕まえては、水槽で飼い、ガラスにぺったりとくっつく時の、吸盤のついたかわいらしい足に見とれていたりしたから、カエルそのものが嫌いというわけではない。

カエルのことではちょっとした思い出。中学校の生物の時間、カエルを解剖する授業があった。先生が用意した大きなガマガエル、班に1匹ずつあてがわれて解剖をする。どうやって解剖したのかは忘れてしまったけれど、生きているカエルの手足にピンを刺した記憶だけはあって、嫌な思い出。あれって、まさに「生体解剖」。

その日、先生が余分に捕まえてきたカエル2匹、別のクラスの授業に使うからと、水槽の中に入れられていた。小さなカエルだって、これから解剖されることがわかっているものを、目にしているのは辛いが、それが大きなガマガエルならなおさら、しっかりと感情移入・・・助けてあげなくちゃ。

そこで一計。先生がちょっと教室を離れたスキに、友人と二人、水槽からガマガエルを持ち出し、校庭に逃がしてしまった。両脇を抱えると(それぐらい大きかった)、ネズミを獲れない猫もどき、両手足を無防備にだらりとしていた様子が今でも目に浮かぶ。

理科室は校舎とは別棟、平屋で裏口がついていたから、逃がすのは結構簡単。次の授業まで、先生が気がつく恐れはなかったし、だから犯人も特定できなかっただろうけれど、そんな破天荒なことをする女子学生、だいたいの察しはついていたか。今思えば子供の浅知恵。授業に使う予定があったのだから、いずれ他のガマガエルが犠牲になるだけのこと。

そんな思い出のあるカエルだから、雨の降る夜、車の運転をしていて田んぼ道にさしかかり、カエルの大群が道路を横切るのに出くわすと、自然に憧れての田舎暮らしだったはずなのに、後悔することしきり。

道路といってもそれほど広くはなくて、車2台がやっとすれ違えるほど。その道を、こちらの田んぼからあちらの田んぼへと移動するために使うカエル達。その数は半端じゃなくて、道路一面だもの、避けようったって避けられない。カエルをプチプチと轢きながら走るしかないという、「カエル地獄道」。

ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で呟きながら車を走らせるしかないのだが、車のライト、これがカエル1匹1匹の顔を鮮明に浮かび上がらせてくれて、実にリアル。ちっぽけながら、こちらを向くカエルと目が合うことしばしば、思わず急ブレーキを踏みたくなるが、ブレーキを踏んだところで、目の前のカエル、よけられるはずもない。

それに、たとえそのカエル1匹が助かったところで、道路に拡がるその他大勢、どうやったって助かりっこない。まあ、卵から孵って立派な大人ガエルに成長するのはごく一部。天敵だらけの娑婆のこと、生き残るのは余程の強運。だからこそ大量の卵、大量のおたまじゃくし。自然の摂理は上手くできている、といい方に解釈するしかないか。

それにしても、十年ぐらい前にはもっとたくさんいたはずのカエル、ここ数年でぐんとその数が減っている印象。我が家の庭でカエルを見る機会など、今ではほとんどなくなってしまった。そういえばヘビも減って、ジンが生きていたころはさながら「マングース対コブラ」、ジンとヘビの闘いが見られたものだが、これももうまったく見ていない。

このあたりの農家、米作りに農薬を通常の半分量しか使わないのがウリ。それでも農薬散布の目印、黄色い旗が田んぼにヒラヒラしている光景は変わらないから、少なからず生態系は壊れているはず。他には紫外線の増加や酸性雨などというのも、カエルの減少の原因とみられているらしいが、いずれも人為的な環境破壊の結果。

身近なカエルにしてこの危機、自然の中からひとつずつ姿を消してゆく生物がいるという事実は深刻、人間もいつか…と思ったりして。

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写真:(上)蛙って、結構かわいい顔をしていて、目があうと世間話のひとつでもできそうな雰囲気。(下)ヘビを捕まえるのが得意だったジン。「キャー、ヘビ!ジーン!!!」と叫ぶと、必ず助けにきてくれた。


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災害に遭う動物を思う人、救う人

2007年07月17日(火)

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なんだか最近ちょっと静かで不気味、そう思っていた矢先、新潟県中越沖に大きな地震。その規模、震度6強、マグニチュード6.8、震源の深さは極めて浅くて約17キロというから、どれほど激しい揺れだったか想像できようというもの。

災害にあわれた皆様に、心からのお見舞いを申し上げます。

2004年10月23日、近隣地域で同様の規模の地震があって、正式名称は「新潟中越地震」。その地震では70名近い方が死亡し、負傷者約5千人、避難者が約10万人、住宅損壊が約12万棟という大被害。現在もなお復興作業途中らしく、「震災復興ビジョン」なるものが策定され、実行に移されようとしている段階での今回の地震。死者は今のところ7名。

死者については、たった一人であれ、それが何百人であれ、命を亡くされた方がいるという事実は重く、だから、被害が少なかったと書いて良いものかどうか迷うが、その7名、すべてが70歳代、80歳代の高齢者というのは、痛ましい。家が老朽化していたための家屋倒壊、それが原因と新聞には書かれていたが、老いて不自由な体、逃げるに逃げられなかったのだろう。

ある夫婦、夫は不自由な足を抱えて逃げ遅れ、奥の部屋には、寝ていたらしい老妻が生きて残された。お互い自由のきかない身、二人でどんな暮らしをされていたのか。暗い部屋でこれまでの人生、思い出すでもなく天井眺めての暮らしだったのかと、その生活、余計なこととは思いつつ想像し、新聞の記事に目が留まったまま。

人の、災害被る姿を見るのが辛いのは言うまでもないこと、何かできることはないかと、ない知恵を絞るが、もうひとつ、動物好きにとっては、避難場所に姿見えない動物たちのことがやたらと気になる。2000年6月26日、三宅島の噴火。この災害時にも頭に浮かんだのは動物たちのことだった。

全島に避難勧告、すぐに戻れると思って犬は繋いだまま、猫は家の中に閉じ込めたままで避難した人が多かったと聞く。今でも覚えている新聞の写真、船で避難する中年の女性のリュックから顔を出す猫、名前は確か「音吉」、典型的な日本猫。

こうして人間と一緒に避難した動物は幸い。翌27日の段階で当地の保健所が行った調査集計によれば、避難勧告が出されていた地域の登録犬は125頭、 そのうち避難所に連れてきた犬はわずか38頭、猫などの小動物は不明。

こうした時の動物愛護団体の活動はすばやく、しかも命知らず。有毒ガスの満ちた島、残された動物を保護するためのケージが不足していると、知人の動物愛護団体から、災害発生後ほんの少したってからFAXが送られてきた。すぐに我が家にあったケージを送ったが、どんな子があのケージに入れられて避難したのか、無事、避難できたのだろうかと、気が気でならなかった。

悲しいことに実行力乏しく、自らすすんで救護活動には参加しようとしない身、それがなんとなく後ろめたかったりもするが、できるだけのことをする、それしかないのだと卑怯者の言い訳。それからしばらくは置き去りにされた動物、保護された動物たちの様子、団体の活動状況を知らせてもらっては、安堵したり悲しんだり。あれからもう7年。

被災地でのペットの扱い、この時の経験が生きたのか、その後は行政もペットの避難に心配り。先の新潟中越地震、被害の大きかった山古志村では、自衛隊の輸送ヘリで避難する住民、そこには犬の同乗する姿もあった。

さらには「新潟県中越大震災動物救済本部」が、日本動物愛護協会主導で設置されたり、新潟県獣医師会は被災動物のうち、応急手当を行った動物の診療費は無料と太っ腹。ペットと人間の絆、災害時であってもなお絶ち難く、むしろ、そんな時だからこそ側にいたいと願う飼い主の心理が、ようやく理解されたのか。

天災が起きての重篤な事態、復興ままならない時期に優先すべきは人間、動物のことを心配するなんてと非難するヒトの一人、二人。簡単な言い訳をするなら、それでも、人間は温かい同胞の応援を背に、なんとか窮地を脱することもできようが、動物はその命、人間の手に任せっきり、死ぬも生きるも人間次第。人も動物も災害の中、なんとか生きられるようにと望む思いは同じ。

人の受けた被害の大きさ、避難生活の辛さに深く思いを馳せつつ、動物に心寄せるこの心境、どうぞお許しのほど。

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写真:(上)三宅島に送った同型のケージの写真を撮ろうと思ったら、たちまちのうちに占拠されてしまった。(下)普段は扉をはずしてミイちゃんの寝場所。災害時は、大きなケージ2個に4匹ずつ分けて避難しようと思ってはいるものの、相性もあって、どう分ければいいものやら。


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刺す蜂、刺さぬハチ

2007年09月10日(月)

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玄関のドアを開けるとブーンと蜂。玄関先の庇の、無数に開いている通風孔から複数の蜂が出入りしているから、その中に巣があるのだろう。ちょっとほっそりとしたタイプの蜂で、どうやらアシナガバチ。巣を刺激しないかぎり刺さないそうだから、さほどの心配はないと思いつつ、それでも急いでドアを閉めてしまう。

庭には、アシナガバチより数段恐ろしいスズメバチがいて、サングラスでもかけていそうなゴツイ風体に似合わず、可憐なラベンダーの花が好きらしく、いつも花のまわりを飛んでいる。それだけなら一見のどかな自然の風景。

ところが側を通ろうものなら、ウィンウィンと迫力ある羽音を立てながら頭の上を旋回し、威嚇してくるから、まあその怖いことといったらない。特に夫は、なぜかいつも追いかけられるハメに(・・・熊)。

スズメバチは肉食、だから狙いは猫のごはんで、特にマグロが好物。前の家にいた頃は、スズメバチがそれほど怖いとも知らず、外猫のごはんに寄ってくる蜂に「ハチマル」という名前をつけ、ごはんよー、などと悠長に呼んでいた。

その時は‘敵’のオーラを発していなかったせいか、あちらも和気藹々、ブィーンと飛んできて猫と一緒に(仲良く)ごはんを食べていたのだけれど・・・。

今だって共存・共生が理想。でもご近所の友人、外に干してあった洗濯物をたたんでいたら、その中からスズメバチが飛び出してきて刺され、救急車が出動するという大騒動を起こしたことがあって、さすがに怖く、ついに蜂駆除の専門業者を依頼することしてしまった。ごめん、ハチ!

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写真:(上)2匹のハチワレ。刺される危険性ゼロ。(左)こちらは刺す蜂。スズメバチを写真に撮るのは極めて危険だとか。これは借り物(手抜き・・・)。


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蜂のいない庭

2007年09月11日(火)

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蜂の「駆除」(あまり使いたくない言葉…)を業者に頼み、作業終了。結構な時間がかかった。これでやっと庭に平和が戻った、と言いたいところなのだけれど、懸命に巣をつくっていた無数の小さな命を奪ったと思うと、どうにも後味が悪い。

玄関のドアを開ければ軒先から、庭を歩いていれば花陰から、どこから見張っているのか、間髪いれずに追いかけてきた蜂の、その姿も羽音も、何も見えず何も聞こえない。命を奪われて消えていったものの悲しみがつきまとい、心が重い。ラベンダーの花はいつものまま咲き続けているというのに。

人間という生き物、古来から「生きるために」という大義名分をふりかざし、自分にとって有益か無益か、あるいは無害か有害かという二項対立する基準の中で、あらゆる生物の生死をふるいわけてきた。異種どころか同胞に対しても同様で、それがあの悪名高き「優生学」へと繋がってゆく。

優生学の危険性は、人間の存在価値を「国家」の枠組みの中で決定づけることにあって、個々の人間の命は、国家の存続を条件に、自立できるかできないかという基準に則ってのみ肯定され、あるいは否定される。

自立能力を持つもの、要は生産性のある者だけが自由を享受する権利を持ち、そうでないものに対しては抑圧や暴力が正当化される。優生学者の定義する「低価値者」は、抹消的優生学の対象となり、それがヒトラーの出現を、ある時期正当化する理由ともなっていった。

(…で、突然の思い出し。日本版ヒトラーの現東京都知事、「府中療育センター」での重度障害者を視察後、「ああいう人ってのは人格あるのかね。経済性ってことだけに触れないと思うけど、やっぱり永久に採算合わないだろうし、安楽死とか考える人もいるだろうね」と。そんな人物を批判するでもなく受け入れる東京都民って?)

蜂といえども生きる「権利」、人間によって生死が決定づけられることに対し、どうにも違和感がぬぐえない。自らの手で命に価値をつけ、選別したことへの後ろめたさからなのか。

あらゆる生き物に対し、その存在を否定することなく、また否定による暴力への転化に加担することなく生きていきたいと思うのだけれど、生きるため、生きてゆくためには、何らかの命の犠牲の上に立つという大前提は、到底覆せないか。

蜂を駆除しただけでそんなことを思うなんて、ちょっとオーバーかしら。

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写真:(上)優生学で言えば、自力では十分にごはんを食べることができないムメちゃんは、たぶん淘汰の対象。けれど飼い主にとってのムメちゃんは、側にいてくれるだけで十分にその存在価値がある。いつまでも元気で長生きしてね。(左)ラベンダーは、昨日も今日も変わりなく・・・。


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3.03030303センチの虫にも・・・

2008年08月14日(木)

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暑くてたまらない。こんな暑い日に買い物に行くなんて、考えただけでもウンザリしてしまうのだけれど、猫たちの缶詰が底をついてしまった。人間なら卵の一つ、トマトの一個もあればなんとかなりそうだけれど、猫に「ありあわせ」なんていう言葉はまったく通用しない。

仕方なく、近くの大型スーパーまで車を飛ばした。お盆休みのせいか、父親と一緒の家族連れがたくさんいて、どこの売り場も大変なにぎわい。人の大勢いる場所が苦手なので、ズリズリと後ずさり、しっぽを巻いて逃げの体勢に入ったが、手ぶらで帰れば、猫たちにどんな顔をされることやら。

ペット売り場では「生体」(嫌な言葉だなあ…)を扱っているから、そこに行く時は遮眼帯をした競走馬よろしく、猫の缶詰売り場めがけて一直線、一切脇目を振ることなく商品を選び、レジに並び、思い切り素早い行動を心がけて売り場を去る。

それなのに…今日ときたら、売り場に入るドアのすぐ左側に「昆虫館」なるものが設置されていて、否が応にも目に入ってしまう。館と言ったって、売り場の片隅の、せいぜい3畳ほどのスペースを囲って作った掘っ立て小屋、その真ん中に太い木が一本デンと置かれている。なんだろう、これ…?

入り口には「ご自由にお入りください」とあり、中にはカブトムシらしき昆虫がたくさん放されている。すでに何人かの子ども達で満員、昆虫を素手で捕まえたりしてはしゃいでいるが、その光景は、子どもと昆虫とのふれあいなどというメルヘンチックな世界からはほど遠く、地獄絵さながら。

玩具とでも思っているのか、何かの虫の長いヒゲの先端を持って思い切り振り回しているのは、小学校3、4年生の男の子。子ども達の足元にも昆虫がいっぱいいるのだけれど、気遣って避けようとする子などなく、平気で踏みつぶしている。だから、床は潰れた昆虫たちの死骸で真っ黒。

それを見て、かわいそうにと思うふうでもなく、あるいは気味が悪いと思っているふうでもなく、死骸の塊に指をつっこみ、クルクルと無表情にかき混ぜている子もいる。外から見ている親たちは、「踏んじゃだめよー」と笑いながら声をかける。

命を軽視するこの感覚、この鈍感さっていったいどこからくるのだろう。心の底から猛然と怒りが湧き上がる。昆虫も生きているのよ、命があるのよ、どんなにちっぽけでも、たったひとつしかない命を一生懸命生きているのよ・・・そう言葉にしたかったが、この人たちと言葉を交わすことがなんとも億劫に思え、黙ってその場を後にしてしまった。

小さな命との共存共生を学ぶ機会もなく、命の消えゆくさまを悲しいとも思わない子ども達。この子達はこれから先、どんな社会を作ってゆくのだろう。

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写真:(上)にゃあちゃんも、もうすっかり鼠や鳥や虫を捕まえる生活を忘れてしまいました。(下)イジメ?いえいえ、かわいさあまってのこと・・・。


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プロフィール

ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。

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