パパがジュリに甘いわけ
2007年05月06日(日)
パパの大好きだった、そしてパパのことが大好きだったアミちゃんが、「猫ウイルス性鼻腔気管支炎」とおぼしき病で早逝してしまってから、かれこれ14年の月日が経つ。‘おぼしき’と書いたのは、症状はそれらしいものの、正式な診断名が下されなかったからなのだが、その時にかかっていた獣医さんというのが、とある動物園で野生動物を診ていたという歴戦のツワモノ。どんな凶暴な動物であろうと、彼の手にかかれば、注射だろうが投薬だろうが難なくやりおおせることができたという。
そのせいなのか診察はものすごく大雑把で、聴診器を当てることはなく、検査もしなければ、レントゲンも一切撮らない。それだもの、カルテなんてものがあろうはずはなく、すべては「勘」の世界だった。そもそも動物と言うヤツは強い生き物で、本来持っている生命力だけで十分に治癒するはずだし、死んでしまったらそれはそれで仕方のないこと、というのが彼の哲学のようだった。粗野なやり方だと思いつつも、それでも行っていたのは、豪快さがむしろ頼もしく思えてしまったことと、休日であっても、急病とあれば嫌なひとつせず診てくれるという、「赤ひげ」ぶりに惚れてしまっていたからだった。
さすがにこれまで飼ってきた猫たちの中で、とりわけママがかわいがっていた猫を、乳腺の腫瘍が原因で失った時には、あまりに乱暴な手術ゆえとしばらく嘆き悲しみ、後悔ばかりしていたこともあってそれきり、今はもう行っていない。その病院に毎日のように点滴に通い、当時まだあまり一般的ではなかったインターフェロンを打ち、必死で闘病生活を送っていたアミだったが、万策尽き果て、たった2歳で天に召されてしまった。ああ、パパの嘆くこと嘆くこと。
そんなある日、アミの特徴でもあった鼻の横の大きな茶色いシミと、後足に茶色の脚絆(きゃはん…脛に巻く布)模様のある白い猫、チリリンがひょっこり登場し、我が家の猫になった。アミの生まれ変わりに違いないとパパは堅く信じ、「猫」かわいがりしていたけれど、どうも性格が違う。このチリリン、妙に世間ずれしていて、人の気持ちを探るのに長けた頭のよさがむしろ胡散臭くもあり、本当に生まれ変わりかしらと、心密かに思い始めていた時に現れたのがジュリだった。
姿かたちはあまり似ていないけれど、ジュリの行動パターンはアミそっくり。なによりも、毎朝枕元でパパが起き出すのをじっと待ち続け、ごそごそと動きだすのを見計らって胸にしがみつき、パパに抱かれて一緒に起きてくる姿は、アミそのものとしか言いようがない。「輪廻転生」なんてことが本当にあるのかどうかわからないし、ママのような怠け者には、もう一度生きるなんて、そうそうラクなことじゃないように思えたりもするが、我が家では不思議なことに、先住がいなくなって1年後ぐらいにそっくりな子猫が現れる。
猫なんて似たり寄ったりと言ってしまえばそれまでだけれど、生まれ変わっても、また我が家を選んでくれたのかと思うとついつい嬉しく、前の子にも増してかわいがってしまう。でも、寂しいことだけれど、これから先の生まれ変わりには対応できそうにもない。だって、パパもママも着々と爺さん婆さんになってゆく身、とても最後まで面倒を見てあげられそうにないもの・・・。
写真:(上)脚絆を巻いたチリリンの後ろ足の証拠写真。これにすっかりダマサレタ?(左下)ジュリはアミがそうだったように、毎朝、こうやってパパに抱かれながら起きてくる。
縁は異なもの
2007年05月16日(水)
カールはたった5年しか生きてくれなかった。実家で飼っていた犬は、最後は介護の日々になってしまったが、それでも20年も生きてくれたし、猫は18年生きた。だから家で飼っている動物というのは優に十数年は生きるものと思っていて、カールの寿命が短かったのは飼い方に問題があったのかもしれないと、しばらく鬱々とした日々を過ごしてしまった。どんな生き物にも与えられた寿命というものがあって、長いも短いも致し方のないこと、たくさんの猫達との出会いと別れを経験して、今はようやくそう思えるようになったが、当時はそんなふうに割り切ることはできなかった。
フクと出会ったのはカールを失ってちょうど一年、銚子から魚屋さんが車で魚を売りに来た金曜日のことだった。我が家は徹底したサカナ派、だから魚をどこで買うかは結構重要な問題。スーパーの魚は養殖だらけでなんだか気持ちが悪く、お刺身にシュッシュと液体をスプレーしているのを目撃してからというもの、素直にそれを口に運ぶ気にはなれず、仕方なく車を20分ほど走らせて信用のおける個人商店の魚屋さんに行き、10日分ぐらいまとめ買いをして、冷凍しておくようになった。
だから魚屋さんが売りに来てくれればなにより、必ず寄ってもらうようにしている。運命のその日も、門の前で魚屋さんと冗談を交わしながら、あれこれと魚を物色していた。ちょうどそこに二軒お隣の奥さんが車で帰ってきて、子猫の泣き声のするケージを抱えて門の中に入っていこうとする。このお宅はご夫婦揃って大の動物好き、だから普段から道で会えば猫や犬の話ばかりをするという仲。どうしたのかと尋ねると、息子さんが通っている養護施設の庭に子猫が捨てられていたのだという。
奥さんは飼ってあげたいのだけれど、すでに犬一匹と猫一匹を飼っているし、そもそもそご主人はもともと猫があまり好きではなく、だからこれ以上飼うのはだめだと言われたらしい。だから、せめてひとり立ちできるまで毎日家に連れ帰り、面倒をみてあげることにしたのだとか。施設長がもともと獣医さんだったことを伝え聞いてのことなのか、施設には犬や猫がしょっちゅう捨てられている。
ケージを覗くとそこには白黒の子猫。カールを亡くして一年目だったからはピーンと霊感、カールの生まれ変わりだと確信し、とにかく預からせてと、彼女の返事も待たずに家に連れてきてしまった。忘れもしない…その時パパはトイレの中。ドアの外から「カール君にそっくりな子、貰っていい?」と。あわてて出てきたパパがノーと言うはずもない。
ミルクの時期が終わるまで彼女が面倒を見ようと提案してくれたが、猫にミルクをあげるのは手馴れたもの、苦にならないからと、その日から我が家の子にしてしまった。カールも拾ったばかりのころは「美男子」からはほど遠い容姿だったが、この子、それにも増して、鼻には無造作に置かれた黒い模様、背中の模様は、母猫のお腹の中で細胞分裂をした時に(そんなことがあるのかどうかは知らないけれど)、黒い模様があちこちに飛び散ってしまったような奇妙な形。その上薄汚れていて、ママは「なんだか不細工な子ねえ」と言っていたが、パパは、こういう子ほどかわいくなると言って譲らない。確かに、みにくいあひるの子は白鳥になったが、みにくい子猫もそれなりの猫になった。
ただし性格はほんとうにいい子なのだけれど、この子、ドライフードをまったく食べてくれない。缶詰もどれでもいいというわけではなく、決まったブランドの決まった商品でなくちゃいけない。その上、本当に好きなものは「カツオのナマリ」で、これがなくちゃ生きていけないというほど。だからいつものスーパーで売り切れになっていたりすると、わざわざ車を飛ばして次のスーパー、次のスーパー、まさに「ナマリ尋ねて何千里」の世界で、フクのために一日を潰すことになる。
そんな面倒な子だけれど、カールがいなくなってさほど日数が経っていなかったこともあり、カールの命の延長線上、そのままずっと生き続けているようで、だからフクとは通算して15年もの長いつきあいをしているような感覚。あの時に出会ったのが白黒の猫ではなく、白猫とか茶猫だったら、たぶん貰ってはいなかっただろう。おまけに、二軒先のお隣さんと金曜日のあの時間に出会ったのは、ここに住んで10年以上になるが、後にも先にもあの時だけ。
白黒猫のことで、ひとつだけ胸の痛む思い出がある。カールの具合が悪く、もうだめかもしれないという切羽詰った時期だった。田舎道を車で走っていると、電線に止まっているカラスがやたらと騒いでいて、なんだろうと思ってその視線を追うと、そこには子猫がいた。一匹はもうすでにカラスに食べらてしまっていたようで、もう一匹がその側でうろうろしている。それが白黒の猫だった。カールの看病のこともあったし、急いでいたこともあり、さらに正直に言えば、なんだか怖くてそのまま通り過ぎてしまった。まだいるようなら拾ってあげようと決心しての帰り道、子猫のいた辺りを探したが、すでに影も形もなくなっていた。
どれもこれも助けてはあげられないのだし、そんなことをしたら、きっと何十万、何百万もの命を一人で背負わなくちゃならなくなってしまって、到底無理。縁のある子にはできる範囲のことはしてあげるにしても、それ以外はそれぞれの運命に任せるしかないのだろう。そうは思うのだけれど、運の良し悪しのなんと不公平なこと。運の良かったフクちゃんは前世、溺れかけたカツオでも助けてあげたに違いない。
写真:(上)鼻の模様を除けばカールにそっくりなフク。でもフクの顔には‘わがまま’って書いてあって、やっぱりカールのほうがずっとおとなしそう(5月15日の写真)。(左)フクの1ヶ月目ごろの写真。
一期一会
2008年03月25日(火)
フクがいなくなって今日で5日。どんな形であれ生きていて欲しかったと、そう思う。
最愛のペットを亡くした人の反応は二通り。もう二度とあんな悲しい思いをするのはいやだからと、それきりペットを飼うのをやめてしまう人と、ペットと過ごした蜜月の日々が忘れられず、次の子を飼う人と。
17年飼っていた犬を1年半近く介護し、つい先日亡くした友人がいる。白内障で目は見えず、首の骨が曲がってしまっため、頭がほとんど背中につかんばかりだったというから、介護も並大抵のものではなかったらしい。その友人は、もう二度とペットは飼わないと言う。
悔いのない介護をしたはずなのに、苦しみを長引かせてしまっただけだったのではないかと、そればかりを思ってしまうらしい。話をしている最中にも、ああ、だめだめ、あの訴えるような目が浮かんできちゃって、と。
そんな彼女の兄上の家には常に2匹の犬がいるが、このお兄様は彼女とは正反対。飼い犬が亡くなると、その日のうちにペットショップに駆け込み、そっくりな子を買ってくるのだそうだ。ご丁寧に、名前まで同じものをつけるという。
犬が死ぬと悲しくて悲しくて仕事にならないから、間髪入れずにそっくりな子を飼い、同じ名前をつけて喪失感を回避する。お兄様の職業は内科医。仕事柄、命に対しては冷静・冷徹なはずだが、愛するものを失う悲しみは、理性をもってしても抑えることができないということなのだろう。
大切なものを失うたびに自らの心を苛め、苦しんでしまうのに、私もどちらかというと後者。愛するものがいなくなってしまうことの空虚さ、寂寞とした思いに耐えるだけの精神力が不足している。
もう金輪際、猫を増やすつもりはないけれど、フクと同じ模様の猫さんに出会ったら、もう一度一緒に暮らしたいと思うに違いない。密かに、生まれ変わってきてくれないかしらと、そんなことを思う日々。
写真:(上)やまだのママさんから、フクちゃんにお花が届きました。清楚な白い花が、フクの魂を優しく癒してくれているようです。(下)嬉しいね、フク。こんなきれいなお花を頂いたのよ!
復活節のカンタータ
2008年04月01日(火)
しばらく小休止していた、教会暦によるバッハ・カンタータシリーズが始まった。昨年11月にメンデルスゾーンの<エリア>を弾き、あまりの大曲に力尽きたというわけでもなかったのだけれど、まあそれに近い心境でバイオリンに触れることなく過ごしていた。
それよりもここ2ヶ月間はフクの看病に追われ、朝から晩までフク、フクと声をかけ続ける生活、楽器どころではなかった。疲れた体と心を音楽で癒そうという気にもなれず、楽しみにしていた演奏会を2回フイにし、CDさえ聴かずにいた。久しぶりにバイオリンのケースを開けると、蓋の内側に猫の毛がついていて、これは間違いなくフクちゃんの毛。バイオリンを出した後の空間は、フクが丸まって寝るのに恰好の場所だった。
その昔飼っていた犬のヒロは、バイオリンを弾きはじめると必ずワォーン、ワォワオーンと遠吠えをする。チャコという気難しい猫は、バイオリンのケースを開ける仕草をするだけで、冷蔵庫の裏に隠れてしまった。ずいぶんと失礼な話だけれど、人間なら耳を塞ぎたいといったところだったのか。
それほど犬猫の評判芳しくないバイオリンだけれど、フクだけは練習の間、どれほど音程が狂おうと、キーキーという耳障りな音を立てようと、平然とケースの中で寝ていた。練習が終わっても、気持ち良さそうに寝ているフクを起こすのがかわいそうで、起きるまでそのまま。バイオリンは所在無くテーブルの上に放り出されていた。どうして死んじゃったのよぉ、と、ぽそりと呟きながらの練習再開。
今回のシリーズは、(よりにもよって)「復活節」のためのカンタータで始まる。第一日目は31番<天は笑い、地は歓呼す(Der Himmel lacht! Die Erde jubilieret)>。死は復活の大前提であり、だから喜びに溢れたものとして死が謳われる。
特に九曲目、他のカンタータではしばしば葬送を象徴するものとして用いられるコラールが、ここでは、イエスの復活を信じることによって、自らもまた永遠の生命が約束されるという、歓喜に満ちたものとして表現される。だから決して暗く弾かないでくださいね、という指揮者の指示。
指揮者がそんな要望を出した直後、練習を聞いていた某大御所の歌手が突如、「死は決して悲しいものではなく、むしろ永遠の生命を得るという素晴らしいものなのよ。内村鑑三はね、お嬢さんのルツ子さんが死んだ時、『ルツ子さんバンザイ!』と叫んだのよ」と口を挟む。
カンタータは弾くのも聴くのも好きだけれど、キリスト教そのものに詳しいわけではないし、信者でもなく、まして内村鑑三の思想など知る由もないから、内村の発した言葉の真理を読み解く術などまったくない。凡庸な私は、キリストの再臨と復活の信仰によってしか、我が子の死を受け入れることなどできなかったのだろうという、内村の「親」としての悲しみを思うだけ。
フクの死は「消滅」。いつしか私が無に帰す時、私の記憶の中に生き続けたフクも同時に無に帰してしまう。それで十分なように思う。命に限りがあればこその「愛」。二度と会えないからこその「今」。
あと2日、復活節のためのカンタータ演奏が続く。
写真:(上)バイオリンケースで寝ているフクの最後の写真。(下)庭のモクレンが満開。モクレンはまだまだこの先もずっと咲き続ける。
猫満時(ネコミツドキ)の怪談
2008年07月17日(木)
午前零時過ぎ。お酒を飲んでいる私たちの周りではしゃぎはじめる猫たち。そんな猫たちの嬉しそうな様子を見ていると、ひとり、急ぎ足で旅立ってしまったフクちゃんのことを必ず思い出す。昨日も同じ。「どうしてフクちゃんだけ先に死んじゃったのかしら」と夫と話していた。その瞬間、バキンッと何かがはじけるような鋭い音。
何の音かと一瞬驚いたが、大して気に留めるでもなくフクのことを話し続けていると、またしてもバキンッ!2回ともはっきりとした音だったから、夫の耳にもももちろん届いていた。音の聞こえた方向の壁にかかっているのは、今はもう使っていないヴァイオリン。
湿気の多いこの季節のことだから、張ってある弦が急に緩んだのかもしれないとも思ったが、でもあんなにすごい音、コマが倒れてしまったか、弦が切れたかのいずれかしか考えられない。よくよく確かめてみたけれど、ヴァイオリンに特に変わった様子は見られない。
そういえば数日前の夜、猫たちが、一斉に壁を見つめていたことがあった。フクがいるのかもわからないわよ、などと冗談めかして話していたが、はて、ほんとうのところ何がいたのか、何が見えていたのか。
壁の下の棚はフクのお気に入りの場所だった。「霊」の存在を特に信じているわけではないけれど、今回のことは、自分の存在をアピールしようとして、フクがやったこと のように思えてならない。そうであって欲しいとも思う。
「オバケ」のフクちゃん・・・。どんな形であれ、フクがいつも傍にいてくれるなら、これほど嬉しいことはない。もう、フクの好きだったものを食べさせてあげることも、ぎゅっと抱きしめてあげることもできないけれど、そっと話しかけてあげることだけはできるのだもの。
写真(上):フク、怪奇現象なんて起こしている暇があるのなら、お願いだから一日も早く生まれ変わってきてちょうだい。(左):件のヴァイオリン。
プロフィール
ジュリママと猫たちを乗せて走る鈍行列車のちゅうちゅうとれいん。車窓から見える風景を、気ままに書き綴るブログです。あけみちゃんの絵日記、『あけみ参上つかまちゅりーっ!』もどうぞよろしく。どちらもボチボチの更新ですが、末永くおつきあい頂ければ嬉しく思います。

